57歳でフリーターになったUn lapinです。DVD『お伊勢さん』で伊勢神宮の行事を学んでいます。
今回は、第4回「千三百年の伝承、式年遷宮の歴史」を紹介します。式年遷宮を通じて日本人が、神と人、そして国家の永遠を目指してきたことが明らかになります。
伊勢神宮を参拝する予定のある方は、ぜひ参考にしてください。俳優の石坂浩二さんと夢輝のあさんがレポーターを務めています。
式年遷宮とは何か
社殿を修繕したり造営したりすることを遷宮といいます。式年は、定まった年を意味します。
伊勢神宮では20年に一度、全ての社殿を新しく造り替えて御神体を遷します。
式年遷宮の歴史
伊勢神宮では1300年前の飛鳥時代から20年ごとに制度として遷宮を執り行ってきました。
それ以前は森の中の神聖な地に神様を招き寄せる依代を建てて儀式が行われていました。やがて神籬や祠を建てるようになり、社殿の造営、遷宮へと発展してきました。
天武天皇が20年ごとに遷宮を行うことを定め、持統天皇の治世の690年に内宮、692年に外宮の第1回式年遷宮が行われました。
遷宮の制度化
壬申の乱で勝利した天武天皇は、天照大神に感謝して定期的にお宮を建て替える式年遷宮を発意しました。
神宮司庁の河合真如広報室室長が式年遷宮の目的を解説します。
大陸から様々な文物が導入されていた時代だったので、国風の文化を守ろうとする機運があった。
この時代に創建された法隆寺を建立する技術をもっていた。あえて古くからの技術で定期的に社殿を作り続けたのは、祖型を守ろうとする意識があったと考えられる。
なぜ20年に一度なのか
20年の根拠
DVDでは20年ごとに式年遷宮が行われる理由として、お米の貯蔵期間との関係をあげています。
遷宮には膨大な費用がかかります。当時の経済はお米に支えられていました。
お米は干米、糒として20年間蓄えることが出来ました。
20年間貯めたお米を式年遷宮の資金とするシステムが構築されていたと考えられています。
神宮司庁 河合真如広報室室長
20年ごとに行う理由として他の説もあります。
・用材の耐用年数が20年程度であった。
・次の世代へ技術を伝承するには20年が適当であった。
・建物の「清浄さ」を保つ限度が20年程度であった。建物が老朽化することは穢れであり、神の生命力を衰えさせるとして忌み嫌われた。
中断期からの復興
室町時代
室町時代に120年あまりの間、資金難のために遷宮は中断されました。
平安後期から室町期にかけて式年遷宮の造営費として、諸国の公領や荘園から役夫工米としてお米を臨時に徴収していました。
足利幕府の力が衰えて造営費を工面できませんでした。この間は仮殿遷宮という臨時の遷宮でしのぎました。
復興を支えた人たち
慶光院上人
夢輝のあさんが慶光院上人に扮してレポートします。
慶光院
三重県伊勢市宇治浦田町にあった室町時代創建の尼寺です。
3代清順尼は勧進により1551年(天文20年)に宇治橋の架橋、1563年(永禄6年)に外宮の遷宮を再興しました。
この功により後奈良天皇から上人号が代々の院主に、その住居する寺院に慶光院の名称が与えられました。
織田信長
信長は家臣の平井長康を遷宮奉行に任じ、遷宮の費用として3000貫文を寄進しました。

《織田信長黒印状》神宮徴古館農業館所蔵
豊臣秀吉
信長の遺志を継いで内宮と外宮の第41回式年遷宮を行い、遷宮を復活させました。

《豊臣秀吉検地免除朱印状》神宮徴古館農業館所蔵
太閤検地の際には、宮川から内側は神宮の領地として検地を免除しました。
徳川家康
遷宮の費用として3万石を寄進しました。この結果、明治時代まで式年遷宮は安定して行われました。
御師
江戸時代に全国各地で活躍しました。寺社に属して、参宮を勧めたり、参拝や宿泊を世話しました。
布教の他に現在の旅行会社の役割をしていました。毎年神宮お札や神宮歴を配ったり、神宮の神徳を説いたりして、伊勢信仰を広めました。
「せめて一生に一度はお伊勢参り」
御師が伊勢神宮と庶民を結びつけ、お伊勢参りが庶民の間でブームになりました。
伊勢講
参宮の費用をまかなうため、御師は全国各地で講を組織しました。
旅費は多額で個人では賄えないため、お金を共同で積み立てて、毎年代参という仕組みを作りました。田んぼや畑を講に使うこともありました。
くじ引きで参拝者を決め、毎年、数人の講員が村の代表として交代で伊勢へ参宮して御神楽を奉納しました。
御師の邸宅
御師は担当する地域に檀家を持ち、伊勢を参拝した人たちを自宅でもてなしました。
最盛期には内宮前に271件、外宮前に615件の御師邸がありました。1871年(明治4年)に御師制度が廃止され、その後は廃れていきました。
丸岡宗大夫の邸宅跡
伊勢市宮町、外宮近くにあります。1866年(慶応2年)に建てられました。1件だけ残る御師邸です。現在は地元の有志が保存管理をしています。
夢輝のあさんが訪れます。武家屋敷のような構えの大きな門があります。
50-100人の参拝者を収容できました。御師邸としては決して大きな建物ではありません。

《伊勢大々神楽之図》神宮徴古館農業館所蔵
御師邸では宿泊だけでなく、祈祷や神楽奉納を行なったり、食事や酒が振る舞われました。
御師邸の食事
旧丸岡邸に残された290年前の献立表を参考に御師邸の食事が再現されます。
膾、煮物、刺し身などが三の膳で提供されます。当時は一汁一菜が一般的だったので、三の膳まで並ぶ御師邸の料理は豪華なものでした。
どの献立にも鰒がでます。膾には鮫のたれが入っています。鰒も鮫も神饌です。味付けは塩、味噌、醤油。自然と食材の味をいかした調理がされています。
戦後の復興
国民による遷宮
明治時代以降、遷宮は国家の儀式として行われました。太平洋戦争後は伊勢神宮が国家と分離されたため、国民の奉賛が重要になりました。
2013年の第62回式年遷宮では550億円もの費用がかかりました。このうち220億円は国民からの浄財で賄われました。
昭和24年に予定されていた第59回式年遷宮は戦災の影響で資金難により延期されました。
戦後初の女性祭主北白川房子さんを総裁とする伊勢神宮式年遷宮奉賛会が全国から遷宮資金を集め、宇治橋の架け替えのみが昭和24年に行われました。
式年遷宮奉賛美術品
この時に117人の芸術家が遷宮の費用に当てるために作品を奉納しました。遷宮費用が集まったので、美術品は売却されませんでした。

山口華楊(1899-1984)《海幸》神宮徴古館農業館所蔵
DVDでは山口華楊(1899-1984)の《海幸》と横山大観(1868-1958)の《国破山河在》が紹介されます。

横山大観(1868-1958)《国破山河在》神宮徴古館農業館所蔵
式年遷宮のためだけでなく、日本を盛り上げようという芸術家たちの思いが伝わります。
なぜ、続いてきたのか
常若
いつまでも若々しく、瑞々しくありたいという思いが私たちにはあります。神道ではこの精神を「常若」と呼びます。
建物が老朽化して神の生命力が衰えることを日本人は忌み嫌いました。このため、お宮を建て直して神の生命力が蘇ることを目指しました。
隣り合う御敷地に新しいお宮を建てる。そのままのものが隣の御敷地に建つことで、伊勢神宮は古くて新しい存在として、また神も常に瑞々しくあり続けてきました。
私たちの先祖は遷宮という永遠の循環に立ち会うことで、常に新しさを感じ、新たな活力を身につけてきました。
いつでも新しく、変わらない姿をのぞみ、神と人、そして国家の永遠を目指した結果、式年遷宮は今なお続いています。
まとめ
伊勢神宮では1300年前の飛鳥時代から20年ごとに遷宮を行ってきました。
式年遷宮を通じて日本人は、神と人、そして国家の永遠を目指し、新たな活力を身につけてきました。
「伊勢」の記事です。
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