「野球選手は子供の心を持っていなければならない」No.94 ロイ・キャンパネラ、Joe Posnanski『THE BASEBALL 100』#12

黒人の男の子が野球のキャッチャーを守っているイラストです。場所は野原で、男の子の年齢は6歳ぐらいです。グレーのユニフォームを着ています。帽子とストッキングはブルーです。男の子は笑いながら、すごく楽しそうに野球をしています。この男の子は多くの人に愛されています。

Joe Posnanski『THE BASEBALL 100』野球史上偉大な100人の選手を選んだ本です。大谷選手に関連してリストアップされたドジャースの選手を紹介してきました。

小学生の男の子が野球のボールを投げているイラストです。元気で可愛らしい男の子です。男の子は左利きの投手です。 男の子は左手に手にボールを持っています。広い草原で投球をしています。右手にはグローブをはめています。右脚を高くあげています。左脚は地面につけたままの状態です。顔は右側を向いています。男の子は白いユニフォームを着ています。 帽子とストッキングは青色です。背番号は22番です。帽子のマークはLとAを重ねてデザインされています。 ノーヒットノーランを達成した日は「ただの一日」にすぎない、No.78 クレイトン・カーショウ、Joe Posnanski『THE BASEBALL 100』#9 伝説を駆け抜けた奇跡の左腕、No. 70 サンディ・コーファックス、Joe Posnanski『THE BASEBALL 100』#10 グレーの野球のユニホームを着た黒人の少年が野原を走っているイラストです。画像は横長です。男の背番号は42です。帽子とストッキングは青色です。男の子は楽しそうに元気よく走っています。 ジャッキー・ロビンソン、野球だけでない「背番号42の伝説」Joe Posnanski『THE BASEBALL 100』#11

今回はポズナンスキーが語る「No.94 ロイ・キャンパネラ」を紹介します。

2024年6月25日、大谷選手が「9試合連続打点」を記録しました。報道によると1955年のキャンパネラ以来、69年ぶりの球団記録だったそうです。

ロイ・キャンパネラ

Roy Campanella (1921年11月19日 – 1993年6月26日) ロサンゼルスに移転する前、ブルックリン時代のドジャースを代表するスター選手です。「キャンピー」のニックネームで親しまれた人気者でした。

残念ながら自動車事故のためロサンゼルスで活躍することはありませんでした。1969年7月キャンパネラは野球殿堂入りしました。黒人選手としてはジャッキー・ロビンソンに次いで2人目の表彰でした。

6人目の黒人メジャーリーガー

ジャッキー・ロビンソンの1年後に入団したため忘れられがちですが、キャンパネラはメジャーリーグに登場した6人目のアフリカ系アメリカ人選手なのです。

ロビンソンが登場した時、ドジャースのブランチ・リッキーがその契約を「野球の壮大な実験」と呼んだように、黒人メジャーリーガーの運命は未知数でした。

この時点でメジャーリーグには5人のアフリカ系アメリカ人選手がいました。ロビンソンの物語があまりにも有名なので、そのうち4名は成功できずに終わったことを人々は覚えていません。

そのシーズンを通してメジャーリーグに昇格したのはわずか2人でした。1人は伝説の黒人投手、41歳のサチェル・ペイジ、そしてもう一人がロイ・キャンパネラだったのです。

15歳でプロデビュー

キャンパネラは26歳でメジャーデビューしましたが、この時点でプロ野球歴はすでに10年を超えていました。15歳でニグロリーグにデビューしました。

ニグロリーグで史上最高のキャッチャーの一人であるビズ・マッキーにキャッチャーの技術を教えこまれまっした。そして17歳でマッキーの後継として正捕手になり、19歳で東西オールスターゲームのMVPを受賞しています。

当時のキャンパネラの素晴らしさを完璧に理解することは不可能です。彼の守備は素晴らしく、言葉で伝えられないほどの強肩と打撃のパワーを兼ね備えていました。

この時期にニグロリーグでキャンパネラは各地を転戦し、数え切れないほどの試合に出場しました。ルーチンワークのように1日に2試合、時には3試合、4試合も捕手を務めました。 キャンパネラ自身、3つのダブルヘッダーに出場して一日6試合に出場したと語っています。 彼は不死身だと思われていました。また自分でもそう思っていたのです。

メジャーデビュー

ブランチ・リッキーと初めて面会したのは24歳の時でした。ロビンソンとすでに契約をしていたリッキーですが、キャンパネラにはロビンソンよりも慎重に対応しました。

理由はキャッチャーというポジションでした。当時はアフリカ系アメリカ人選手に対して多くの偏見がありました。その一つに黒人選手はメジャーリーグのキャッチャーをこなせないという考えがありました。複雑で多様な判断が要求されるポジションを黒人選手に務められるはずがないと考えられえていました。

1946年キャンパネラはニューハンプシャー州のナシュアでプレーし、ニューイングランドリーグのMVPに選ばれました。彼は当時としては珍しい「誰からも尊敬される黒人選手」でした。監督のウォルター・アルストンが試合中に退場させられた時、キャンパネラが暫定監督に任命されたのです。これによりキャンパネラは組織化された白人野球における初めてのアフリカ系アメリカ人監督になりました。

1947年は誰もがジャッキー・ロビンソンの快挙に注目していました。キャンパネラはマイナーリーグで素晴らしい守備を見せて人々を驚かせていました。1948年、26歳のキャンパネラは間違いなく野球界で最高のキャッチャーでした。

しかしメジャーリーグでの出番はありません。7月初旬ドジャースが連敗して勝率.500を下回った時に、ようやくキャンパネラはメジャーリーグに呼ばれました。

初戦は4打数3安打、二塁打1本を打ち、盗塁も阻止しました。2戦目は3打数3安打、三塁打と四球で出塁、そして3戦目の7月4日キャンパネラは5打数3安打、2本塁打、4打点と大暴れします。

その後試合に出続けましたが、キャンパネラの打率.258に終わりました。しかし彼の素晴らしい守備を評価してMVP投票では多数の票を獲得しました。彼は盗塁を試みた36人の走者のうち24人をアウトにし、盗塁阻止率は驚異の67%を誇りました。

皆に愛される人柄

ロイ・キャンパネラはメジャーリーグ史上最高のキャッチャーになりました。6シーズンのうち4回30本塁打以上を達成しています。また信じられないほどの強肩を見せつけました。最初の5シーズンは連続で盗塁阻止率がリーグトップとなり、キャリア通算での盗塁阻止率57%は今でも記録に残っています。

記録だけでなく、人々は彼の人柄を愛しました。スポーツライターは彼の面白い話を連日紹介し、彼のリーダーシップと投手との連携、勝負所での勝負強さを絶えず記事にしました。

また彼らはキャンパネラを1951年と1953年、1955年に3回MVPに選びました。この3つのMVPがすべて受賞するのに値したか議論の余地があります。1953年と1955年は彼よりチームメイトのデューク・スナイダーの方が優れた成績をあげたという議論もあります。しかしキャンパネラを称え愛していた記者たちは、キャンパネラにすべての賞を贈りたがったのです。

ジャッキー・ロビンソンとの相違

キャンパネラも人種差別に直面していましたが、差別についてはほとんど語ったり、反撃したりしませんでした。チームメイトで同じ黒人メジャーリーガーのパイオニアであったジャッキー・ロビンソンとはかなり異なった態度でした。

ロビンソンが力強い意思をもって世界を変えるための熱烈な義務感を抱いていたのに対し、キャンパネラは野球を楽しくプレーすることのみを好みました。

ジャッキー・ロビンソンは時代の寵児であり、闘士でした。アメリカの歴史書に登場するのが当然の存在です。

一方キャンパネラも別の種類のヒーローです。人種差別や嫌がらせ、不公平さをかわしたり、笑いでごまかし、感情を隠しながら、必要なときには差別に立ち向かいました。ロビンソンとは違った意味でキャンパネラは複雑な人物でした。そして彼もまた世界を前に進めた一人です。

ロビンソンとキャンパネラとの間には「意見の相違」がありました。しかし常に互いに敬意を持っていたのも事実です。

ジャッキー・ロビンソン自身も、次第にこのことを理解するようになりました。

「時が経つにつれ、キャンパネラに対する敬意は深まったと確信しています」

自伝『Never Had It Made』の中でロビンソンは「人々が彼らを引き離そうとしていた」と語っています。「キャンパネラと私を敵対させるために彼らが用いた『分断して制圧する』古い手法が上手くいかなかったことを嬉しく思います。彼らの企みはうまくいかなかったのです」とロビンソンは記しています。

悲劇的な幕切れ

野球史上最高のキャッチャーの一人であったキャンパネラのキャリアは悲劇的な幕切れを迎えました。彼は引退する意思がないことを常に強調していました。「ユニフォームを脱がせるには、切り裂くしかないだろう」と豪語していたほどです。

成績が下降してもキャンパネラは希望を捨てませんでした。ドジャースがロサンゼルスに移転した1958年シーズンもプレーするつもりで「ロサンゼルス・コロシアムは自分の打撃に最適な球場になるはずだ」と語っていました。

1958年1月のことでした。運転する車がアイスバーンでスリップして電柱に激突、37歳のキャンパネラは半身麻痺になりました。それ以降、キャンパネラは車椅子での生活を余儀なくされます。

事故の翌年、ドジャースはキャンパネラを称えるためにヤンキースをロサンゼルス・コロシアムに招待して特別試合を開催しました。9万3千人以上もの観客が詰めかけ、今でも野球史上最多の観客動員数として記録に残っています。この試合の収益はカンパネラの医療費に充てられました。

リハビリの後もキャンパネラはドジャースと関わり続けます。アメリカ東部のスカウトのアドバイザーや春季キャンプの特別コーチを務めました。

「野球選手として生きていくには男でなければならない。でも同時に子供の心を持ち合わせていないといけない」という有名な言葉をキャンパネラは残しています。

1969年7月、カンパネラはクーパーズタウンにある野球殿堂入りしました。

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