ジャッキー・ロビンソン、野球だけでない「背番号42の伝説」Joe Posnanski『THE BASEBALL 100』#11

グレーの野球のユニホームを着た黒人の少年が野原を走っているイラストです。画像は横長です。男の背番号は42です。帽子とストッキングは青色です。男の子は楽しそうに元気よく走っています。

Joe Posnanski『THE BASEBALL 100』野球史上偉大な100人の選手を選んだこの本で、ジャッキー・ロビンソンはNo.42にリストアップされています。

「42」はロビンソンの背番号です。野球選手としての実績が42番目という意味ではありません。MLBは「42」をメジャーリーグ全体の永久欠番に定めています。

ロビンソンがメジャーリーグにデビューした4月15日はジャッキー・ロビンソン・デーと呼ばれ、この日はメジャーリーグの全選手が背番号42を着用して試合に出場します。

『THE BASEBALL 100』でポズナンスキーが語るジャッキー・ロビンソンについて紹介します。

ジャッキー・ロビンソン

Jack Roosevelt Robinson(1919年1月31日 – 1972年10月24日)メジャーリーグ初の黒人選手として野球の発展だけでなく人種差別撤廃に大きな役割をはたしたアメリカのスポーツ史上最も重要な人物です。

しかし「文化的なアイコンになってしまったため、アスリートとしての真実が見落されがちである」とポズナンスキーは考えています。

ロビンソンは野球だけでなく、陸上競技やバスケットボール、アメリカンフットボールで米国トップレベルの才能を示しました。

1994年バスケットボールのスターであるマイケル・ジョーダンが31歳でマイナーリーグで野球に挑戦しました。しかし彼は1年で野球を断念しました。

ジョーダンとロビンソンには年齢や時代背景だけでなく大きな違いがありました。ロビンソンは黒人アスリートとして「絶対に失敗できない」という強い意志と責任感を背負っていたのです。

野球は4番目のスポーツ

大学時代のロビンソンにとって野球は4番目のスポーツでした。野球に力を注がなかった理由をロビンソンは語っています。

「黒人アスリートとして、野球はプロとして未来がありませんでした。そのため野球は純粋に楽しむためにプレーしていました」

当時メジャーリーグは黒人選手に門戸を開いていませんでした。

陸上選手として

ロビンソンは最初に陸上競技として頭角を現しました。彼はジュニアカレッジで走り幅跳びの新記録を樹立します。ヘルシンキオリンピックが戦争で中止になったため、ロビンソンは跳躍競技をあきらめました。そんな時でもコーチに頼まれて参加した大会では、練習をしないで走り幅跳びで最高記録を更新しています。

ジャッキーの兄のマック・ロビンソンはジャッキーより4歳半年上で、アメリカ陸上競技史に残る偉大な選手の一人でした。ベルリンオリンピックの200メートル競走で彼はオリンピック記録を樹立して銀メダルに輝きました。もし時代が違っていれば、彼はアメリカのスーパースターになっているはずでした。

しかし偉大な業績と関係なく彼の仕事は街の清掃員であり、カリフォルニア州パサデナ市の黒人労働者の粛清の際は解雇されました。優れたアスリートでも黒人という理由のために正当な評価を受けられず、厳しい人生を送らざるをえませんでした。ジャッキー・ロビンソンは運動能力だけでなく、兄の境遇にも強い影響を受けて育ちました。

アメリカンフットボールのスター

次にジャッキーはフットボールのスターになりました。スピードと優雅さ、そして類まれな戦術眼は、対戦相手を翻弄し、彼のプレーは見る者を魅了しました。

1939年ロビンソンは大学オールスターチームに選出されるほどの活躍をしました。その後、軍隊を経てプロ選手となり、ロサンゼルス・ブルドッグスで華々しいデビューを飾りました。彼の活躍は多くの観客を熱狂させ、フットボールの歴史に名を刻んでいます。

バスケットボール

ロビンソンはバスケットボールでも優れた選手でした。大学時代には太平洋岸カンファレンスの得点王に2度も輝いています。

しかし彼のバスケットボールでの功績は、野球での活躍ほど知られていません。彼の素晴らしい才能は、人種的な偏見のため過小評価されていました。オールカンファレンスチームに選出されることはなく、大学卒業後はプロの巡回チームでプレーしました。

そして野球

大学時代のロビンソンが野球をプレーしたのは1シーズンだけでした。成績は平凡で打率は.097と低迷、さらに足首の怪我を抱えていました。

ある試合でロビンソンは日が暮れた状況で投手として登板しました。彼は暗さを理由にして試合を中断させようと時間稼ぎをしました。「暗くてホームプレートが見えない」と文句を言い、それを証明するために暴投を重ねました。最終的に審判は試合は中断しましたが、ロビンソンは文句ばかり言う選手というレッテルを貼られてしまいます。

1942年、彼は軍隊に入隊しました。その後の4年間、ロビンソンはバットとボールを手にしませんでした。肌の色を理由に、軍隊では野球をさせてもらえませんでした。このような逆境にいた26歳のロビンソンが野球選手として成功する可能性は極めて低かったと思われます。

ニグロリーグ

1945年ニグロリーグのカンザスシティ・モナークスと契約しました。しかしロビンソンはニグロリーグの劣悪な環境に苦悩します。移動の過酷さ、食事のまずさ、宿泊施設の不足、契約や待遇面での不備、そして根強く残る人種差別にロビンソンは苦しみました。

人種差別のあるリーグでプレーすることは誰にとっても辛いことです。しかし正義感が強いロビンソンには特に耐え難い環境でした。ロビンソンがお金のためだけにニグロリーグに留まっていたのですが、その時事態が急速に進展し始めました。

メジャーリーガーになる

1945年8月、ロビンソンはブルックリンでブルックリン・ドジャースとの契約に署名しました。

ドジャースが人種統合を受け入れたことは、国民に力強いメッセージを送りました。長い間基本的権利を否定されてきた何百万人ものアメリカ人の心に希望と勇気を与えたのです。

ドジャースの会長であったブランチ・リッキーはこの契約を「野球の壮大な実験」と呼びました。ロビンソンの運命はまだ未知数でした。白人や黒人など関係なく、多くの人々はロビンソンがメジャーリーグで成功できるか疑っていました。アフリカ系アメリカ人選手がメジャーリーグの厳しさに耐えられるはずないと考え、またはそう信じようとしたのです。

信仰と信念

ロビンソンは人種差別を克服するために、自分は神に選ばれた存在だと信じ続けました。その信念は彼に大きな力を与え、周囲からの脅迫や疑念、困難な状況に直面しても彼は信念を曲げませんでした。その揺るぎない信念が、彼をアメリカの歴史に名を残す存在へと導きました。

春季キャンプに到着した時、ロビンソンと妻のレイチェルは人種差別者集団から脅されました。しかし彼らは信念を持って対応しました。

打撃不調に陥っても、彼は信仰をもち続けました。チームメイトが一緒にプレーすることを拒否するのではないか、相手チームが試合出場を拒否するのではないか、リーグが彼を支援しないのではないか、どんな噂が囁かれてもロビンソンは信念を持ち続けました。

そして、その信念によって彼はアメリカの歴史に残るジャッキー・ロビンソンになったのです。

野球の実力

1947年4月、ロビンソンはメジャーリーグにデビューしました。打率.297、74個の四球、125得点を記録しました。盗塁数はリーグトップ、ホームランは12本も打っています。

彼はメジャーリーグ全体の新人王に選ばれました。現在MLBの新人王にあたるルーキー・オブ・ザ・イヤーは「ジャッキー・ロビンソン賞」と呼ばれています。

2年目は同様の成績でしたが、二塁打と三塁打の数が増えました。

3年目はMVPを受賞しています。この年のロビンソンの活躍は驚異的でした。打率.342、出塁率.432、長打率.528、37盗塁(当時直近20年でリーグ最多)、122得点、124打点、セカンドでも素晴らしい守備を見せました。

現役時代のロビンソンは守備の名手と評価されていません。しかしセカンドやサード、ファーストと、どのポジションを守っても優れた野手でした。ロビンソンの守備について近年、多くのことが語られています。

守備も優れていたのに、どうして評価があまり高くないのかと不思議に思いませんか。

ロビンソンは全てに全力を尽くし、集中したのです。全てのプレーに集中し、全力を尽くしました。バッティングだけでなく、守備だけでなく、野球だけでなく、スポーツだけでなく、アメリカの精神の頂点にあったロビンソンは常に、すべての瞬間に集中しなければならなかったのです。

ロビンソンは精神と肉体においてアメリカ史上最高レベルのアスリートであり、理想という大きな目標に駆り立てられていました。ロビンソンには成功する以外に選択肢はなかったのです。

人間はこのようなことができるのか、本当に驚くべきことですがロビンソンはそれを実現したのです。

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