水上勉と谷崎潤一郎、ふたりは『越前竹人形』を通して結びついていました。
取りもったのは伊吹和子
谷崎潤一郎『夢の浮橋』、水上勉『越前竹人形』
ともに昭和30年代に出版された京都を舞台にした小説です。両作品の京言葉を監修したのが伊吹和子でした。
目次
水上勉『越前竹人形』
『越前竹人形』は1963年(昭和38年)中央公論社から刊行されました。
谷崎潤一郎は『越前竹人形』を「竹取物語の世界までが連想に浮んで来るのである」と評しています。
谷崎潤一郎の絶賛
1963年(昭和38年)9月12日「毎日新聞」夕刊に「越前竹人形を讀む」という谷崎の文章が掲載されました。
櫛の歯のように生えている竹林にさし込んでいる陽は、苔のはえた地面に、雨のようにそそぐかにみえた。 玉枝は黄金色の光の糸を背にして、竹の精のように佇んでいた。
鮫島ではないが、私もこゝで思はず息を飲んだ。 「竹の精」と云ふ想像はいかにも美しい。この一言でその場の光景が金色を放って目に浮ぶ。
(中略)
作者がそれを意識してゐたかどうかは分らないが、何か古典を讃んだやうな後味が残る。筋に少しの無理がなく自然に運ばれてゐるのもいゝ。玉枝を竹の精に喩へてあるせゐか、何の閥係もない竹取物語の世界までが連想に浮んで来るのである。
谷崎潤一郎「『越前竹人形』を讀む」『雪後庵夜話』中央公論社、1967年、p165より引用
作家にとって谷崎の評価は最高の栄誉、驚喜した水上勉は毎日新聞の本社を訪れます。
私は、十二日の夕刊をみて、毎日新聞の本社を訪ねて、浜田琉司さんから、先生のお原稿をみせて頂いた。眼頭があつくなった。先生は、題字を自書され、本文は口述されて細かに筆記させられたらしく、その誰かの字を、ところどころていねいに消し改めたり、書き足したりしておられた。先生の字は、心もちふるえていた。インキの色がそこだけ変っている。その色が私の眼に沁みた。十二日、十三日、十四日分と三回を全部通読する機会をあたえられたのだが、浜田さんの前でわけもなく私はふるえてしまった。
水上勉「谷崎潤一郎先生のこと」『谷崎潤一郎全集 第19巻月報』中央公論社、p3より引用
水上勉は谷崎潤一郎の原稿を譲り受けて生涯の宝にしました。谷崎潤一郎が読んだ『越前竹人形』は伊吹和子から献本されたものです。
『夢の浮橋』と『越前竹人形』の類似性
伊吹和子が京言葉を監修したことを知らずに谷崎潤一郎は『越前竹人形』を読みました。『越前竹人形』を読んでいるうちに谷崎潤一郎は『夢の浮橋』との類似性に気づきます。
讃んで行くうちに第一に私が氣がついたのは、この中に出て来るやゝ古風な京都辯が、私の著作「夢の浮橋」に出て来る京都辯と似てゐることであった。實は私のあの京都辯は、生粋の京都の舊家の育ちである中央公論社の伊吹和子氏に教へて貰ったのであるが、この間そのことを伊吹氏に話したところ、正直を云ふと竹人形の京都辯も伊吹氏が直したのであると云ふ。さう云へば京都辯ばかりでなく、いろ/\の點で水上君のこの作品は私の「夢の浮橋」を思ひ出させるものがある。
谷崎潤一郎「『越前竹人形』を讀む」『雪後庵夜話』中央公論社、1967年、p163
谷崎潤一郎から伊吹和子に電話があり、会話文が『夢の浮橋』の京都言葉に似ている理由を尋ねられました。
慌てた伊吹和子はしどろもどろに「正直を申しますと竹人形の京都弁も私が‥‥」と、妙な言葉遣いで返事をしてしまったそうです。
『越前竹人形』の京言葉
1962年に水上勉は京都の遊廓を舞台にした『五番町タ霧楼』を発表しました。この作品の京言葉に水上勉は納得できません。
『越前竹人形』のヒロイン「玉枝」も京都から流れてきた女性、『夢の浮橋』の京言葉を評価していた水上勉は会話文の修正を伊吹和子に依頼します。
製作の直接の担当は私ではなかったけれども、ヒロイン「玉枝」が京都から福井へ流れて行った女性であり、関西が舞台になるので、彼女を中心とした会話文の京言葉を見てほしいという水上先生の依頼で、私は会社から命じられて、たびたび水上先生の仕事場を訪問することになった。
伊吹和子『われよりほかに ― 谷崎潤一郎最後の十二年』講談社、 1994年、p395より引用
流行作家になっていた水上勉の仕事部屋はホテル・ニュージャパン、後に火事で話題になりましたが当時は新築の高級ホテルとして有名でした。
先生の仕事部屋は畳敷きの和室で、大きな和机に向って座って執筆しておられましたが、『夢の浮橋』の京言葉はいいね、僕の小説もよろしく頼むよ、とおっしゃいました。
伊吹和子『めぐり逢った作家たち』平凡社、2009年、p191より引用
伊吹和子は会話文だけでなく小説の展開にも大きな影響をあたえています。
当時水上勉は推理小説作家として活躍中でした。『越前竹人形』も推理小説に仕立てるつもりでしたが伊吹和子の言葉で変更
私にも幾度か、どこで「玉枝」を殺したらいいだろうか、と言ったりされた。ところが、この美しい物語に血なまぐさい事件はそぐわないのではないでしょうか、と言いつつ辞去して、次の日に伺ってみると、昨日示された梗概とはまるで違ったふうに原稿が書き進められており、水上先生は、昨日のおしゃべりのおかげでこのような展開にすることが出来た、有難う、とおっしゃった。結局、殺人事件は起らずに終り、単行本『越前竹人形』は、昭和三十八年七月二十日、刊行された。
伊吹和子『われよりほかに ― 谷崎潤一郎最後の十二年』講談社、1994年、p395より引用
『越前竹人形』が推理小説でないことが谷崎潤一郎の意に適い、読後感を書かくことになった、と伊吹和子は推察しています。
水上勉「谷崎潤一郎先生のこと」に谷崎潤一郎と初めて対面したときの様子が描かれています。
前の潺湲亭
1947年(昭和22年)水上勉は南禅寺門前にあった谷崎潤一郎の邸を尋ねました。「前の潺湲亭」です。
水上勉は文潮社という出版社の嘱託、谷崎の『愛すればこそ』という作品を掲載する許諾をもらいに行きました。
やがて奥から先生が出てこられた。黒っぽい着物に角帯をしめ、前かけをして、ずんぐり肥っておられるそのお姿は、想像してきたのとちがって、私が小僧の時代に、どこかでみたような、商家か檀家の御主人のようなかんじである。するどい眼でじろりとみられた。私は射すくめられる気がした。
水上勉「谷崎潤一郎先生のこと」『谷崎潤一郎全集 第19巻月報』中央公論社 、1968年、p1 より引用
5分ほどの対面でしたが緊張した水上勉の様子が窺えます。
初対面から16年後に作家として谷崎潤一郎の評価をえた水上勉は「あの一文によって、自分の文字をつくる心がまえを私は教えられたと思う」と綴っています。