「私には最高のプレーを見せる義務があります」No.56 ジョー・ディマジオ、Joe Posnanski『THE BASEBALL 100』#13

ニューヨーク・ヤンキースの背番号5番の選手がボールを打った瞬間を描いたイラストです。バッターは縦縞のユニフォームを着ています。背番号は5番です。スタジアムは観客で満員です。

Joe DiMaggio(1914年11月25日 – 1999年3月8日)カリフォルニアのイタリア移民の子として生まれました。『THE BASEBALL 100』でポズナンスキーは、56試合連打安打記録(1941年5月15日~7月16日の56試合)に敬意を評してディマジオをNo.56にランクアップしています。

ジョー・ディマジオ

1936年メジャーリーグにデビュー、背番号は5、ニューヨーク・ヤンキースで13年間のキャリアを全うしました。この間にアメリカン・リーグのMVPを3度受賞、オールスターに13回出場、さらに彼が現役時代にヤンキースはアメリカン・リーグのペナントを10回、ワールド・シリーズを9回制覇しています。

私生活ではマリリン・モンローと1954年に結婚、しかしわずか9ヶ月で離婚、ディマジオの嫉妬、支配的な態度、モンローへの身体的虐待、女優としての多忙な生活など様々な原因が噂されています。

一方で離婚後も生涯を通して彼女に献身しました。1962年モンローが亡くなった際に彼女の遺体を引き取り、葬儀を手配したのはディマジオです。そして残りの37年間、 彼は二度と結婚せず、週に3回は赤いバラを彼女の墓所に届けさせました。

1999年3月8日肺がんのためフロリダの自宅で亡くなります。84歳でした、彼の最後の言葉は「マリリンにやっと会えるよ」でした。

ポズナンスキーはディマジオの連続安打記録中の様子を詳しく紹介しています

何気なく始まった偉大な記録

1941年5月、ディマジオはスランプに陥っていました。シーズン序盤は好調でしたが、打率は.300を下回り、運に見放された感じでプレーしていました。

5月13日のクリーブランド戦はノーヒットに終わります。これは運と関係ありませんでした。相手がボブ・フェラーだったのです。ディマジオは「フェラーより速いボールを投げる投手はいない。彼のカーブ?あれは人間業じゃないよ」と嘆きました。

彼は打てず、ヤンキースも負け越していました。5月15日もディマジオは不機嫌な気分で試合を迎えました。しかし、この試合でディマジオはシングルヒットを打ちます。

デイリーニューズは少し大げさに「ディマジオが3日ぶりにヒットを打った」と報じました。偉大な記録は何気なく始まるものです。

翌日、ディマジオは2本の長打を打ちます。そのうちの1本は430フィート(約 131 メートル) のホームランでした。偉大な記録が始まったことをまだ誰も気づいていません。

なにかが足りない大スター

連続安打が始まった時、ディマジオはすでにメジャーリーグの大スターでした。2年続けて首位打者になり、センターの守備も絶賛されていました。そして彼が所属するヤンキースは、彼が入団してから最初の5年間でワールドシリーズを4回も制覇していたのです。

確かに彼は素晴らしい選手でした。しかし、まだ彼独自の代名詞となるようなものはなく「DIMAGGIO」と全て大文字で称される絶対的な存在ではありませんでした。

むしろディマジオはマイナスのイメージを持たれていました。

第二次世界大戦前の緊迫した時代に、ディマジオというイタリア風の名前を人々は警戒しました。実際にディマジオの両親は、真珠湾攻撃の後に政府によって「敵性外国人」に分類されたイタリア人移民の一人でした。写真入り身分証明書の携帯を義務づけられ、許可なく自宅から半径5マイル圏外を旅行することは許されませんでした。

ライフ誌に載った「最初はイタリア語を覚えたものの、現在24歳のジョーは訛のない英語を話し、アメリカの習慣にもよく馴染んでいる」という記事にファンが安心したほどでした。

また報酬を巡る契約で報道陣やファンは彼に反感を抱いていました。実際には、ディマジオが公平な報酬を求めたことが真実です。

彼は1937年シーズンでリーグトップの本塁打と塁打数を記録しました。この成績に対する正当な報酬を求めたのですが、当時はこのような主張は不遜な行為と見なされました。

ヤンキースのオーナーであるジェイコブ・ルパートは「恩知らずの若造だ。私は2万5千ドル(3,750,000円)を提示したが、これ以上は払わない。球団にとって彼の価値はそれだけだ。サインをしなければ、彼なしでも優勝できる」と述べました。

ディマジオは激怒しますが、渋々$25,000(3,750,000円)で契約しました。当時、選手にできることはほとんどありませんでした。ディマジオがチームに戻ると、ファンは彼にブーイングを浴びせました。

1941年、ジョー・ディマジオは確かにスターでしたが、何かがまだ足りなかったのです。

かろうじて続く大記録

5月17日、ディマジオはシングルヒットを打ち、翌日のセントルイス・ブラウンズ戦では3打数3安打を記録しました。月曜日には二塁打を放ち、火曜日には8回裏にシングルヒットを打ちました。水曜日にはデトロイトの投手から2本のヒットを打ちます。その試合では、ディマジオが完璧な送球でランナーをアウトにしたことが大きな話題になりました。

振り返ってみると連続試合安打の記録は、始まったばかりの段階で簡単に終わってしまう可能性がありました。デトロイト戦では最後の打席でようやくシングルヒットが打てました。ボストンと9対9で引き分けた試合では5打数1安打に抑えられています。さらにレフティ・グローブ投手からも1安打しか打てませんでした。

この時点で連続試合安打は11試合でしたが、まだ誰も連続記録を意識していません。

5月27日、ワシントンの試合でディマジオは4安打を打ち、この連続試合安打の中で2本目の特大ホームランを打ちました。2日後に記者たちは初めて記録のことに触れています。「4回、ジョー・ディマジオは左翼にシングルヒットを打ち、連続試合安打を14試合に伸ばした」彼は連続記録をかろうじて続けていました。

5月28日から6月5日までの9試合のうち8試合では、1試合に1本ずつヒットを打ちました。まだ特別な記録とは感じられていません。始まったばかりの連続記録に誰も関心を持っていませんでした。6月1日のデイリーニューズが「ディマジオがスランプである」と報じたほどです。

6月3日、ディマジオの唯一のヒットはホームランでした。6月4日は雨が降りニューヨークには暗いムードが漂っていました。ルー・ゲーリッグの葬儀の日でした。ヤンキースはデトロイトに遠征中でしたが、多くの選手は葬儀のためにデトロイトを離れました。しかしディマジオはデトロイトに残ってプレーし、翌日は5打数1安打で三塁打を打ちました。ヤンキースは敗れましたが、連続試合安打は21試合に伸びています。

6月8日、ディマジオはセントルイスで行われたダブルヘッダーで、2試合とも2安打を記録します。これで連続試合安打は24試合に伸びました。

デイリーニューズのジミー・パワーズ記者は連続安打に言及しながらも「彼の打率は低迷している。弱小チームの投手からヒットをかせいでいるだけだ。強いチームには大きなバットを使えばよい」と漫画を添えてディマジオにアドバイスしました。

当時の記録を抜く

シカゴ戦で4打数2安打、10回に決勝ホームランを打って26試合連続安打を達成すると、ようやく世間が注目し始めました。

「最長連続安打の記録は誰がもっているのか?」当時としてはかなりマニアックな話題でしたが、それほど大きなニュースではなかったのです。近代野球の記録はジョージ・シスラーの41試合でした。

翌日、ディマジオはホームランを打ち、その翌日は二塁打を打ってチーム記録に並ぶ29試合連続安打を達成しました。

そして6月17日に彼はラッキーなヒットを打ちます。最初の2打席は凡退、3打席目のショートゴロはボールがグラウンドの凹みで跳ね上がり、ショートストップのグローブと頭を越えていきました。「あれが私の連続安打記録の中で最もラッキーなヒットだった」とディマジオは後に語っています。

毎朝、目を覚ますと良いことが起きていた

記録は30試合に伸び、これはヤンキースの球団記録になりました。次の試合は内野安打を打って連続記録は31試合に伸びます。その後ホワイトソックス戦で3安打、ヤンキースタジアムのレディースデーではタイガース相手に4安打、さらにその数日後のタイガース戦で1本のホームランを含む2安打を放ちました。

人々は毎日「今日はDiMagがヒットを打ったか?」と互いに尋ねあいました。振り返ってみると、ディマジオ自身は驚くほどリラックスしていました。むしろ記者たちのほうが緊張していて、彼らに囲まれてもディマジオは笑っていました。「記録のことを話しても、記録は止まらないよ」と彼は陽気に話しました。

ディマジオは連続安打を37試合に伸ばしました。38試合目は最終打席で打った二塁打でした。次の2試合でも2本ずつヒットを打って、ジョー・ディマジオは40試合連続安打に到達し、シスラーの近代野球の記録にあと1試合に迫りました。

この時点で、ディマジオの連続安打記録はアメリカ中で最大のスポーツニュースになっていました。面白いことに連続安打がなぜ重要なのか疑問がありました。

「ヒットを何日かにわたって分散したことでチームの勝利に貢献できるのでしょうか?」おそらくそうではありません。しかし連続安打には心を躍らせる何かがあります。とても人々を感動させるのです。

私たちは目を覚ますと、良いことが起きて欲しいと期待します。連続安打記録が続いている間は毎日それが実際に起こったのです。

ディマジオのリズムと感性

そしてもう一つ特筆すべきことがありました。連続安打はジョー・ディマジオのリズムや感性と完璧に一致しています。彼は毎日、同じ表情、同じ優雅さ、同じ目的意識を持ってプレーしました

「私を見るのが初めてだったり、最後だったりする子供たちが必ずいるはずです。私には彼らに最高のプレーを見せる義務がありましたとディマジオは10年後に語っています。これこそがディマジオに不朽の名声を与えた根源です。スポーツライターたちが称賛したように、彼は毎日全力でプレーし、間違ったベースに送球したり、走塁でミスを犯さず、一打席も無駄にしませんでした。

彼はワシントンで行われたダブルヘッダーの第1試合で、6回に二塁打を打ってシスラーの記録に並びました。第2試合では7回にシングルヒットを打ち、デイリーニューズが大見出しで「DIMAG SETS HIT RECORD(ディマグ、ヒット記録を樹立)」と報じました。

記者たちはシスラーの記録が実際の歴代記録でないことに気付きます。ウィー・ウィリー・キーラーが1896年から1897年にかけて44試合連続安打を記録していたのです。シスラーの記録を超えた今、新しい話題のためにキーラーの記録が新たな目標となりました。

ディマジオは7月2日にボストンでホームランを打ち、キーラーの記録を破ります。その後、彼には征服すべき世界がなくなりました。ディマジオはディマジオであり続けるために打ち続けたのです。

次の試合はヤンキースがルー・ゲーリッグの追悼日に開いたダブルヘッダーでした。55,000人以上の観客が詰めかけ、ディマジオは第1試合で4安打、第2試合でさらに2安打を打ち、連続安打記録は48試合に伸びました。

セントルイス・ブラウンズ戦で再び4安打を記録し、連続試合安打記録を50試合に伸ばします。次の試合で2安打を打って連続記録は51試合になりました。ホワイトソックスとの4連戦では7安打を打ち、連続記録を55試合に延ばしました。

56という数字

その後、ヤンキースはクリーブランドに移動し、ディマジオはその名と永遠に結びつく56に到達しました。

56と書かれたポスターをディマジオがバットで突き破る有名なフィルムがあります。買い物をしていてレジの支払いが56ドルであると、あなたはきっとディマジオのことを思い出すでしょう。ディマジオと56は切り離すことができない数字なのです。

56試合の間、ジョー・ディマジオは打率.408、出塁率.463、長打率.717を記録しました。ヤンキースの成績は41勝13敗2分でした。しかし重要なのはディマジオが連続記録を伸ばし続けたことです。

この連続記録は7月17日、クリーブランドのナイトゲームで終わりを迎えました。

この試合はそれまでのナイトゲームで最大となる67,468人の観客が見守りました。その日、ディマジオは3本の内野ゴロを打ちました。最初の打球は三塁線ぎわに飛んだヒット性の当たりでしたが、クリーブランドの三塁手ケン・ケルトナーがバックハンドで捕り、素早く一塁に投げてあと一歩半のところでディマジオはアウトになりました。2か月以上ぶりの無安打試合でした。

「永遠に続くわけではない」とディマジオは語りました。しかし彼は間違っています。ディマジオの記録は今も永遠に続いているのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください