Bob Feller(1918年11月3日-2010年12月15日)1936年から1956年までクリーブランド・インディアンスで活躍した剛速球投手、日本では「火の玉投手」として知られていました。
メジャーリーグの通算成績は3,827イニングを投げて266勝162敗、279完投、44完封、平均防御率3.25、通算2,581奪三振、1940年、1946年、1951年にはノーヒットノーランを達成しています。
目次
ボブ・フェラー
真珠湾攻撃の翌日にアメリカ海軍での戦闘任務に志願し、軍隊に入隊した最初のアメリカ人プロスポーツ選手となりました。このため全盛期の4年間(1942年~1945年)は兵役のためプレーしていません。
彼は軍隊にいたことに大きな誇りを持ち「自分自身よりも国への奉仕を優先したことを一度も後悔したことはない。たまたま野球選手だったアメリカ人として記憶されたい」と語っていました。
兵役前の3シーズン平均25勝以上、退役後の翌年も26勝を挙げているので、米海軍にいた約4年間で少なくとも100勝を失ったと推定されています。このことについてフェラーは「もし海軍で4シーズンを過ごさなければ、300勝よりも400勝の方がずっと近かったと思っている。 でも、それを不満だと思わないで欲しい。 無事に家に帰れてよかったんだ」と語っています。
ポズナンスキーはボブ・フェラーをNo.55にリストアップしました。フェラーの物語を楽しんでください。
ボブ・フェラー博物館
博物館はありません。しかしレンガ造りの美しい建物が木々に囲まれて残っています。建物の側壁にはボブ・フェラーの顔が今も刻まれ、時が止まっているようです。
この博物館は盛況だったことがありません。しかし野球ファンにとって、自分が知らない時代に足を踏み入れることができる楽しい場所でした。時にはフェラー本人がいて、簡単なツアーをしたり、サインや逸話を語ったりしてくれました。
ポズナンスキーは少年時代にこの博物館を訪れたことがあります。フェラー自信がベーブ・ルースのサイン入りボールを指さしていた姿を覚えているそうです。このボールをフェラーは子供の頃に5ドルで買ったものです。このために彼は50匹のゴーファー(ホリネズミ)を捕まえました。当時、ヴァン・ミーターではゴーファーを1匹捕まえると10セント(15円)もらえました。握りしめた5ドルでベーブ・ルースのサインボールを購入し、そのボールをフェラーは生涯大切にしていたのです。
博物館はそのようなロマンチックで、少し古めかしく、甘く、アメリカらしい物語が溢れていました。ポズナンスキーはその小さな博物館が大好きでした。展示内容よりもフェラーが物語を語ってくれる姿が気に入っていました。
博物館の中では話がすべてがシンプルでした。愛らしい小さな場所で、複雑な問題や争い、ビジネスの失敗、晩年に訪れた深い悲しみなどとは無縁に、フェラーは自分の物語を自由に語ることができたのです。
複雑な人物像
フェラーはとても複雑な人物です。愛国心にあふれたフェラーは真珠湾攻撃の直後に自ら志願して入隊します。彼は自分の信念に従って一生懸命戦い続けました。
また彼は「私の時代の選手たちは本物の野球選手だった」という信念を持ち続けました。かつての野球がいかに素晴らしく、そして現在の野球がどれだけ劣っているかを人々に飽きずに語り続けました。
フェラーはおそらく野球史上最も多くサインをした選手です。「フェラーのサインがないボールは、サインのあるボールより見つけるのが難しい」と冗談が言われたほどでした。サインに対して料金を請求した最初の著名選手はフェラーでした。
彼はニグロリーグの選手と共同巡回遠征試合を企画したり、サチェル・ペイジの殿堂入りを最初に働きかけた最初の人物でもあります。彼は黒人選手の才能についても熱く語りました。当時としては異例なことでした。
しかし偉大なニグロリーグのチェット・ブリュワー投手は「フェラーはニグロリーグの選手たちに正当な報酬を支払わなかった」と証言しています。ジャッキー・ロビンソンとの間にも長年にわたる確執がありました。差別的な発言を繰り返し、この点に関して彼は無神経でした。
フェラーは控えめで謙虚でありながら、とても魅力的な人物でした。あまりにも多くのことが詰まっているので、ボブ・フェラーの物語を簡単にまとめることはできません。
メジャリーガーへの夢
野球選手になりたいという気持ちがいつ芽生えたのか、フェラーは覚えていません。ずっとそこにあったのです。7歳の頃には家の壁に向かってゴムボールを投げていました。ボールを投げる息子の姿が優雅で力強いことに気づいた父親のビルは「野球選手になって欲しい」という思うようになります。
2年後にビルは自分のチームを作り、農作業の後は毎日ボビーとキャッチボールをしました。ボビーはとてつもなく幸せ日々を過ごしました。
「ロイ、お前には才能がある。だがそれだけでは駄目だ。自分の才能を磨けなけれなならない。才能だけに頼ると失敗するぞ」と『ナチュラル』で主人公ロイ・ホッブスの父親が息子に語りかけます。
フェラー親子の話を聞いて、映画『ナチュラル(The Natural)』を思い出しませんか。
ボビーはピッチングに打ち込みました。ボビーが14歳の時、ビルは息子のためにアイオワの農場に野球場を作ることを決めました。
映画『フィールド・オブ・ドリームス(Field of Dreams)』と一緒です。
「ラコーン川の上の丘に作ろう。牧草地を切り拓いて、グラウンドを整備するんだ。観客席を作って、冷たい飲み物やサンドイッチを準備すれば、デモインからでもボビーのピッチングを見に来てくれうると思うんだ」と農場を歩きながらブルは息子に語りかけました。
映画『フィールド・オブ・ドリームス』では作家のテレンス・マンも「人々は間違いなく来るだろう、レイ」と語っています。
ビルとボビーは野球場を建設して「オークビューパーク(Oakview Park)」と名づけました。ボビーのピッチングを観るために遠く離れた場所から観客が訪れました。1観客が000人以上も集まったこともあったそうです。
メジャーデビュー
高校3年生になると、ボビーは伝説的な存在になっていました。クリーブランド・インディアンズは、1ドル(150円)+クリーブランドの選手たちのサイン入りボールでフェラーと契約を結びました。
一見ほほえましく思えますが重大な問題がありました。当時はアマチュア選手と契約する権利は、マイナーリーグのチームが独占的に持っていたのです。メジャーリーグの球団は、アマチュア選手や高校生と直接契約することを禁じられていました。この契約はコミッショナーを巻き込む激しい争いに発展していきます。
1936年7月6日にフェラーはセントルイス・カーディナルスとのエキシビジョンゲームで非公式デビューしました。
ボビーが最初に対戦したバッターは新人捕手のブルース・オグロドウスキーです。彼は1球見ただけで、その速さに驚いてクリーブランドの監督に向かって「何とか無事ここから出させてくれ!」と叫びました。この後ボビーは当時の最高選手であったペッパー・マーチンとリッパー・コリンズから三振を奪っています。
カーディナルスの選手たちは試合後にフェラーを絶賛しました。
「私が見た中で最も速いボールの一つだ」
「確かに速い… そして、彼は投球術を知っている」
「ディジー・ディーン以来最高の有望株だ」
「やつは絶対に成功する」
「17歳であろうと関係ない。アメリカンリーグのピッチャーが投げるどんな球より速い投球を見せてくれた。ウォルター・ジョンソンでも及ばないはずだ」
メジャーリーグの初先発は1936年8月23日でした。この時ボビーはまだ高校生でしたが、期待を裏切ることなく9イニングを投げて15三振を奪いました。
新聞は次のような言葉でボビーを称賛しました。
「父親の牧草地に作った簡易的なバックネットに向かって投げることを覚えたこの少年、つい最近まで半ズボンをはいていたこの神童、この高校生には太陽よりも輝かしい未来がまっている」
9月13日、ボビーはフィラデルフィア・アスレチックス線で17三振を奪い、アメリカンリーグの記録を樹立します。メジャーリーグの試合で、自分の年齢と同じ数の三振を奪った投手が2人だけいます。その選手をご存知でしょうか。
1人目は17歳で17三振を奪ったフェラーです。もう1人は1998年に20歳で20三振を奪ったケリー・ウッドです。
フェラーはコントロールの悪い投手でした。17三振を奪った試合で、9四球と1死球を記録しています。この話を聞いて、映画『ブル・ダーハム(Bull Durham)』を思い出しませんか?
映画『Bull Durham』でプロ初勝利を飾ったエビー・カルビン・ラルーシュは試合後に「最高潮だぜ。わけがわからないような気分だけど、最高の気分だ。いや、わからないんじゃなくて、最高なんだ」と語っています。
おとぎ話の終焉
フェラーの少年時代やデビューの全てが映画のようで、無垢で心地よいものでした。しかし彼の美しいおとぎ話はここでほぼ終わりを告げました。
シーズンが終わると、コミッショナーはインディアンズがフェラーを不当な契約で獲得したことを理由に彼をフリーエージェントにするよう警告しました。フェラーがクリーブランドに残ることを希望したので、インディアンズが罰金を支払うことでこの問題は収まりました。
1939年のボビーは24勝9敗、防御率2.85、246奪三振で最多勝・最多奪三振に輝き、20歳のフェラーは野球界の最高投手に台頭しました。
1940年は27勝11敗、防御率2.61、261奪三振で最多勝、最優秀防御率、最多奪三振の投手三冠を獲得、1941年も25勝13敗、防御率3.15、260奪三振で3年連続最多勝利と4年連続最多奪三振をあげました。
コントロールに難はありましたが、彼の速球は圧倒的な威力を持っていました。4年連続して三振王になり、その4年のうち3年間は最多四球も記録しました。
フェラーは22歳までに107勝と1,233三振を記録ています。どちらも近代野球の記録でした。彼が引退するまでに、全ての近代野球の記録が更新される誰もが思っていました。
しかし現実が訪れます。戦争が起こったのです。フェラーは真珠湾攻撃の日に海軍に志願して入隊しました。従軍のため、ほぼ4年間の全盛期をフェラーは失いました。
戦争から戻った後も、フェラーは素晴らしい成績を上げました。1946年は42試合に先発して36試合で完投、10回の完封勝利を挙げ、348三振の記録を樹立しています。
彼はまだ27歳でした。失われた年月を忘れ去って投げ続けてくれるだろうと誰もが期待していました。しかし時が止まることはありません。
フェラーはその後も良い成績を残しますが、あの偉大な投手になることはありませんでした。
266勝162敗、防御率3.25、81三振、3回のノーヒットノーラン、12回のワンヒッターと素晴らしい通算成績です。しかしボブ・フェラーの成績としては寂しさが漂います。彼はもっと素晴らしい投手になっていたずなのです。
このことをフェラーは生涯乗り越えられませんでした。長年にわたり「もし戦争がなかったら」とタイプれた紙をフェラーは持っていました。その紙には熱烈な野球ファンが算出したフェラーの架空の成績が記されていました。
推計によるとフェラーは通算で373勝、3,700以上の三振、5回のノーヒットノーラン、19回のワンヒッターを達成していたはずです。これは妥当な数字ですが、歴史を変えることはできません。フェラーはそれ以上の成績を残したかもしれません。しかし腕を故障する危険もありました。
フェラーの晩年には様々な苦難がありました。最初の妻は薬物依存になって夫婦生活は破綻しています。また経済的な問題を抱えていたため、晩年には多くのサイン会やイベントに出演しました。
それでもボッブ・フェラーは史上最高の投手の一人として正しく称えられています。晩年は人生に打ちひしがれて不機嫌で気難しい態度をとることがありました。しかしフェラーの内面にはたくさんの優しさがありました。
ポズナンスキーは、速球とカーブの正しい握り方を子供に教えているフェラーの姿を何度も目にしています。その姿は、まるで童話の世界が蘇るように感じられたそうです。そして、フェラーはとても幸せそうだったとポズナンスキーは語っています。