あのピート・ローズも称賛:合気道から生まれたフラミンゴ打法、No.85 王貞治(Sadaharu Oh)Joe Posnanski『THE BASEBALL 100』#4

背番号は1のユニホームを着た男の子のイラストです。男の子は白色のユニホームを着て、黒色の帽子、黒色のストッキングを身につけています。背番号は王選手と同じ1です。木製のバットを左肩に担いで、投手が投げるボールを待ち構えています。

Joe Posnanski『THE BASEBALL 100』
2021年にアメリカで出版された本です。

Joe Posnanski(2021),The Baseball 100, Avid Reader Press

野球史上偉大な100人の選手をアメリカの著名な野球ライター、ジョー・ポズナンスキー(Joe Posnanski, 1967 – )がリストアップしています。

数字だけでなく、選手にまつわる興味深いエピソードが満載
野球好きには宝物ですが、残念なことに日本語版はありません。

THE BASEBALL 100

880ページに及ぶこの本は目次がなく、No.100から順に選手を紹介しています。

ページをめくって気になる選手が見つかったら記事を読む
こんな感じで読みすすめる本です。

最初に登場するNo.100 はイチロー
他にもう一人、日本プロ野球で活躍した選手がNo.85に登場します。

2018年メジャーリーグにデビューした大谷翔平ではなく
王貞治(Sadaharu Oh)です。

No.85 王貞治(Sadaharu Oh)

王貞治といえば、868本のホームラン世界記録

メジャーリーグでプレーした経験がない彼の実力について、これまで多くの議論が交わされてきました。

ポズナンスキーは「日本の野球の数字をメジャーの数字に置き換えるのは容易でない」と認めながらも、実際に王と対戦したメジャーリーガーの意見や日本での圧倒的な活躍を根拠として彼の才能を高く評価しています。

この本でNo.85 Sadaharu Ohの前後はビッグネームが並びます。

No.91 Mariano Rivera
No.90 Max Scherzer
No.89 Mike Piazza
No.88 Curt Schilling
No.86 Gray Carter
No.83 Phil Niekro
No.79 Derek Jete

メジャーリーグ未経験でこのランク、王選手はアメリカでも高く評価されているのです。

合気道から生まれたホームラン王

この物語では最初に荒川弘が登場します。

王貞治の師匠
合気道の達人です。

王貞治は、高校時代から注目を集め、巨額の契約金で読売ジャイアンツに入団しました。しかし数年間は、その才能を十分に発揮できません。

新人時代は打率1割台と低迷
三振が多いために「三振王」と揶揄されたほど

1962年荒川博の巨人軍打撃コーチ就任が転機となります。

荒川の通算成績は打率.251、現役時代の成績は輝かしいものではありません。
しかし、彼は合気道に深く傾倒し、その経験を活かした独自の指導法で王を偉大なホームラン王に育て上げました。

打撃が日本刀の稽古と共通する部分があることに荒川は気づき、合気道の原理を打撃指導に取り入れました。バットの代わりに日本刀、ボールの代わりに紙を使って、荒川と王は連日練習を重ねました。

王貞治は、荒川との出会いを経て野球に対する姿勢を改め、技術だけでなく精神的にも成長していきます。

フラミンゴ打法の完成

荒川は、まず王に酒とタバコをやめさせました。遊び歩くのをやめなければ、一緒に練習する意味がないと諭し、王も荒川の考えに同意します。

技術的には、王貞治の打撃フォームを見直し、合気道の原理に基づく改造を試みました。

荒川は、王に片足を上げて立つ「フラミンゴ打法」を指導
バランスと集中力を高めるよう促します。

「フラミンゴ打法」は、ピッチャーがボールを投げる瞬間、軸足に体重を乗せてバランスを取りながら、もう一方の足を高く上げるフォームが特徴

メル・オットやスタン・ミュージアルも前足を高く上げていましたが、彼らの打法を荒川が参考にしたのかは定かではありません。

重要なのは、この「フラミンゴ打法」によって、王がバランスを保ち、「エネルギーの中心」を意識できるようになったことです。王自身「合気道がなければ、片足で立つことを学べず、その意味も理解できなかった」と語っています。

日本での圧倒的な成績

荒川との練習はすぐに成果が現れました。1962年荒川と練習を始めた最初の年に、王は38本のホームランを放ち、本塁打王のタイトルを獲得しました。

それからは13年連続で本塁打王に輝くなど、日本のプロ野球史に王はその名を刻みます。王は通算868本のホームランを記録し、これは2023年現在も世界記録として輝いています。

王貞治の日本プロ野球での成績は、まさに驚異的としか言いようがありません。彼は13年連続でホームラン王を獲得しただけでなく、そのうち8回は2位と10本以上の差でした。

また、16年間で15回ホームラン王に輝き、三冠王も2回獲得、通算OPSは1.080で、1963年から1978年まで15年間連続で1.000を超えました。
これらの数字は、王貞治が日本のプロ野球において圧倒的な成績を残したことを示しています。

メジャーリーガーの評価

ポズナンスキーは「王の成績は、メジャーリーグの成績と単純に比較することはできない」と考えています。メジャーリーグでプレーした経験がない王の実力について、多くの議論が交わされてきました。

実際に王と対戦した経験を持つメジャーリーグの監督や選手たちの「王はメジャーリーグでも活躍してスターになれた」という言葉が紹介されています。

ドン・ベイラー(Don Baylor)やフランク・ロビンソン(Frank Robinson)、トム・シーバー(Tom Seaver)、ドン・ドライスデール(Don Drysdale)、ピート・ローズ(Pete Rose)、デービー・ジョンソン(Davey Johnson)、ブルックス・ロビンソン(Brooks Robinson)ら、王と同時代に活躍した偉大な選手たちも、彼の卓越した能力に一目置いていたのです。

日本のプロ野球に対して常に辛口であるローズでさえ「王は確実に打率.300を記録していただろう」と評価しています。

55本のホームラン記録に挑んだ外国人選手たち

最後にポズナンスキーは、日本における王の1シーズン55本のホームランについて考察します。

日本で「55」という数字は、ルースの「60」と同じ意味をもつのです。

王貞治は、1964年に当時の日本記録となるシーズン55本のホームランを記録しました。この記録は、その後の日本球界において特別な意味を持つようになり、外国人選手がこの記録に挑むたびに議論が巻き起こります。

ポズナンスキーは「ホームラン記録には魅力的で根強いものがある。ファンはその記録が破られるのを望まない」と語ります。メジャーリーグでも人々ロジャー・マリスがベーブ・ルースの60本のシーズンホームラン記録を破ることを人々は望みませんでした。

日本では1985年にランディ・バースがシーズン最終戦までに54本のホームランを記録して、55本に王手をかけました。しかし、最終戦でバースは4打席連続で敬遠され、記録更新の機会を与えられませんでした。

2001年にはタフィ・ローズが55本のホームランを打って王の記録に並びました。彼もまた、記録を更新する最後の試合で繰り返し敬遠されました。ローズは「日本人の誰もが、私が55本の記録を破ることを願っていなかった」と語っています。

2002年、アレックス・カブレラも55本のホームランを記録しましたが、最終戦は打席に立つことすら許されませんでした。

2013年、ウラディミール・バレンティンが60本のホームランを打って、王の記録はついに破られました。しかし、皮肉なことに、このシーズンは使用球の変更疑惑(飛ぶボール)が浮上したため、多くの日本人は王の記録は未だに破られていないと考えています。

「多くの日本人は今でも王貞治の55本がホームラン記録であると信じ、おそらく、これからもその気持ちは変わらないでしょう」とポズナンスキーはNo.85 Sadaharu Ohの章を結んでいます。

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