「殺人者」は本当か? タイ・カッブ:捏造された伝説に隠された真実、No.8 Ty Cobb、Joe Posnanski『THE BASEBALL 100』#8

イラストは緑の草原を疾走するタイ・カッブを描いています。クレヨンで描いたようなイラストです。タイ・カッブは細身で、とても速いスピードで走っています。黒い帽子と、黒いストッキング、黒い靴を履き、白い色のユニフォームを着ています。

タイ・カッブは野球史上最高の選手の一人です。数字を見る限り、カッブが素晴らしい野球選手だったことは明らかです。しかし彼が残したものは記録に残った成績だけではありません。

タイ・カッブには様々な評価があります。

  • スパイクを研ぎ澄まして相手に切りかかる凶暴なプレイヤー
  • 野球史上最も凶悪な人種差別主義者
  • 父親の悲劇的な死を乗り越えられなかった同情すべき人物
  • メジャーリーグ史上最も誤解された野球選手

近年カッブの本質に迫る試みが行われるようになりました。

どんな選手だったのか?
どんな人物だったのか?

野球史上の選手たちを評価した Joe Posnanski, 2021.『THE BASEBALL 100』Reader Press で著者ポズナンスキーがカッブの謎について言及しています。真相はどこにあるのか、100年以上の年月を経て本当のタイ・カッブを見つけることができるのか、ぜひ一緒に考えてみてください。

タイ・カッブ

Tyrus Raymond “Ty” Cobb( 1886年12月18日 – 1961年7月17日)

カッブはベーブルースとよく比較されます。

ルースは史上最も愛された野球選手
タイ・カッブは最も憎まれた選手

ルースは象
カップは狼

ルースのホームランは観客に喜びと愛情をもたらす
カップのプレーは相手を恐怖に陥れ、観客の平常心を失わせる

1961年7月17日カッブは75歳で亡くなり、生まれ故郷ジョージアに埋葬されました。彼の葬儀に参列した野球選手はわずか3人だったと言われています。次のような記事が残っています「なぜ彼ら3人が姿を見せたのかは誰にもわからない。彼らはおそらく、カッブが本当に死んだのか確認したかったのだろう」

これはカッブに関する最も意地の悪い嘘の一つです。事実は違っていました。実際は最初の妻であったチャーリー・カッブと彼女の子供たちが、家族と親しい友人だけのプライベートな葬式にしたいと発表したからです。それどころかカッブの死を悼み、全米各地で自然発生的に小規模な追悼式が開かれました。

タイ・カッブについて語るとき、なぜ人々は極端な見方をしたがるのでしょう。

野球選手として

輝かしい成績

1928年カッブは90以上の記録を残して引退しました。

  • アメリカンリーグのシーズン最高打率 (.419、1911年)
  • シーズン最多盗塁 (1915年、96個)
  • 通算最多盗塁 (897個)
  • メジャーリーグ最多出場シーズン数 (24シーズン)
  • メジャーリーグ最多出場試合数 (3,034試合)
  • メジャーリーグ最多打席数 (11,440打席)
  • メジャーリーグ最多安打数 (4,191本)
  • メジャーリーグ最多得点 (2,245得点)
  • 最多首位打者獲得回数(9年連続)
  • シーズン打率.300以上を記録したシーズン数 (23シーズン)
  • シーズン打率.400以上を記録したシーズン数 (3シーズン)

4191本の最多安打記録は、1985年ピート・ローズに破られました。しかし100年以上経った今も、通算打率.367や12回の首位打者など多くのMLB打撃記録をカッブは保持しています。

当時の野球は現在と異なりました。最重要視されたのは打率です。打率に関してカッブは12回も首位打者を獲得しています。
彼が引退したときの通算打率は .367でした。過去15年間、メジャーリーグでシーズン打率 .367を記録した選手はいません。

2019年のナショナルリーグ首位打者の打率は.329です。カッブは1909年から1927年までの19シーズン、打率が.329を下回ったことがありませんでした。それだけでなく1909年から1919年まで、カッブの打率が .367を下回ったこともなかったのです。

しかし数字だけではカッブの物語は半分も語れません。

飛ばないボールの時代

タイ・カッブは当時の野球選手として規格外の存在でした。この当時彼のプレーが野球の基準を決めました。走り方やバッティング、競技者としてのあり方はカッブが決め、他の選手は従うだけでした。

カッブのプレーは私たちには容易に理解できません。カッブの時代は「飛ばないボール」が使われていたのでデッドボール時代と呼ばれています。1920年ボールの品質が改善され、スピットボールが禁止されるまで野球は得点が少なく、ホームランがほとんど存在しないゲームでした。

1909年カッブのホームラン数は9本でした。打率.377,打点107点の成績でこのシーズンカッブは三冠王になっています。現在では信じられない記録ですが、1900年から1920年までの間に10本以下でホームラン王になれた年は13シーズンありました。その期間20本以上のホームランを打った打者がいた年は4シーズンしかありません。

4回ホームラン王になり「ホームラン・ベイカー」と呼ばれたフランク・ベイカーでさえ、キャリア最高の本塁打数は1913年の12本でした。そのためカッブの時代は盗塁やヒットエンドランが本塁打より重視されました。

カッブのプレースタイル

ホームランの少ない時代の野球でカッブの成績は比類ないものでした。

まず塁に出る(生涯出塁率 .433)
塁を進める(シーズン最多盗塁96個、通算盗塁897個)
そして得点する(2,245得点)

カッブはライナーやゴロを打って出塁し、誰かが彼を止める勇気を持つまで走り続けました。

こんな逸話があります「カッブが二塁に向かって走っているのを見たら、三塁に送球するのが賢明だ」

1900年代デトロイト・タイガースでカッブと一緒にプレーしたワフー・サム・クロフォードは次のように語っています「カッブは打撃や走力で他の者を上回っていたのではない、彼は頭脳で皆を上回っていたんだ」

1920年スピットボールが禁止され、飛びやすいボールが使われるようになります。デッドボール時代が終わるとベーブ・ルースがカッブから野球を奪い去りました。フェンスを越えるホームランが求められるようになったのです。

引退後にカッブは不平を漏らしました「今はもう、大したことは何もない。古いボールなら内野をやっと抜ける程度の打球なのに、今は二流のへっぽこ野郎でもフェンスまでボールを飛ばせるんだ」

人物像

カッブがグラウンド以外で奇行に走ったことは事実です。拳銃を携行したり、家族や友人や雇人とたえず喧嘩したりしました。多くの人が彼を嫌っていました。

しかしカップには敵だけでなく、広く賞賛する人たちもいました。彼は大いなる矛盾の人でした。

1936年野球殿堂入り選手の第1号になりました。ベーブ・ルースを含む他のどの選手よりも多くの得票で最初の殿堂入りを果たのです。

恵まれない環境にいる多くの元選手たちを金銭的に密かに支援し続けました。

遺産の多くは病院や慈善団体の設立に使われ、カッブの故郷ジョージア州ロイストンにはその町で最初の病院がカッブのおかげで建ちました。

奨学金を支給するための教育基金を設立し、ジョージア州の貧しい学生のサポートをしていました。

しかし1961年カッブが亡くなった後、奇妙なことが起こります。彼に対する評価は「凶暴な人種差別主義者である」という悪い評判のみに変貌していったのです。

家族、生い立ち

カッブは手に負えない子どもで、絶えず喧嘩をしながら抑えきれない怒りを爆発させていました。

カッブの父ウィリアムは教師、高校校長、州上院議員、そして新聞の編集者でもありました。カッブは父親を崇拝していましたが、一方で長い間、父親と衝突を繰り返しました。

17歳になると、タイは野球選手になるために家を出ました。父親は意志の強い息子を思い通りにできないことを受け入れており「失敗者として帰ってくるな」とタイに告げました。

父の死

1905年8月8日午後11時ウィリアムは突然帰宅し、玄関ではなく家の裏手から部屋に入ろうとしました。彼は妻のアマンダが不倫を犯していると疑っていたのです。

アマンダはジョージア州の名家出身の大変な美人として知られていました。彼女はウィリアムを強盗と勘違いし、2回発砲しました。1発は腹部、もう1発は頭部に命中します。彼女は後に「彼を強盗だと思った」と証言しました。

その時のタイ・カッブは18歳の野球選手でした。彼の人生は急速に動き始めます。射殺から3週間後、カッブはデトロイトでタイガースのユニフォームを初めて身につけました。一方アマンダ・カッブは過失致死罪で逮捕されました。

チームメイトの仕打ち

1906年アマンダの裁判が始まります。3月31日正当防衛が認められてアマンダは無罪になりました。しかしこれ以降、カッブは母親と会おうとしませんでした。

カッブが春季キャンプに現れると、タイガースの選手たちはカッブにひどい仕打ちをしました。「あれは今までで一番惨めで屈辱的な経験だった」とカッブは後に語っています。

一方虐めた側のある選手は次のように語っています「それほどひどくはなかった。カッブが過剰に反応しただけだ。新人はいじめらても、受け流して笑い飛ばすものだよ」

しかしカッブはただの新人ではありませんでした。父親が母親に殺された18歳の少年でした。非常に繊細で誇り高く、すぐに気分を害する気難しい性格の持ち主です。そしてカッブはシーズン中に神経衰弱を患ってチームを離れることになりました。

冷酷で凶暴な選手

非難の言葉

チームに戻ったタイ・カッブは冷酷で、好戦的で、理不尽で、頑固な選手になっていました。

彼の性格を揶揄する多くの発言が残っています。

  • 彼は山びこにパンチを食らわすためだけに山に登るだろう(作家、バグズ・ベア)
  • 彼は復讐の女神に取り憑かれていた(スポーツライター、ボーズマン・バルジャー)
  • カッブは嫌な奴だ。しかし彼の打撃は確かにすごい。神様、あいつは打つんだ(ベーブ・ルース)
  • やつを眠らせておけ。怒らせると、俺たちは全滅させられるぞ(コニー・マック)
  • カッブが打席に立つと、歯ぎしりする音が聞こえる(レベル・オークス)
  • 史上最高の野球選手だ。そして、まったくのクソ野郎だ(作家、アーネスト・ヘミングウェイ)

残虐で暴力的な行動

暴力的な行為も引き起こしています。

  • 「残酷な扱い」が理由になった妻との離婚
  • オーガスタで黒人のグラウンドキーパーと喧嘩
  • ボストンで濡れたセメントを避けて歩くよう注意した黒人の道路作業員と喧嘩(75ドルで和解)
  • クリーブランドでホテルのベルボーイに暴行(ベルボーイは白人だった可能性が高い)

観客との争い

1912年カッブに関する最も有名な事件が起きました。観客席に飛び込んでクロード・ルエカーという障害を持つファンを暴行したのです。ルーカーは印刷機の事故で右手を失い、左手の指も3本欠損していました。

ルエカーは以前からカッブを罵倒し続けていました。その日はルエカーがカッブに対して卑猥な言葉を使ったため、チームメイトのサム・クロフォードがカッブに言いました「あの男を何とかしないと、お前は根性なしのろくでなしになる」

そんな励ましはカッブに必要ありませんでした。彼は観客席に飛び込みました。「あいつに足がなくても構わない」とカッブは叫びながらルーカーが無意識になるまで殴り続けたと伝えられています。カッブはこの行為に罪悪感を全く感じていません「重要な懲罰措置を見逃さなかったことを喜ばしく思う」と自伝に書きました。

人種差別主義

カッブは長年、野球界随一の人種差別主義者であったと言われてきました。しかしカッブ自身は奴隷制廃止論者の家族の中で育っています。

父方の曾祖父ウィリアムは牧師でした。奴隷制に反対する説教を繰り返したためノースカロライナ州ヘイウッド郡から追放されています。

祖父のジョニーは奴隷制に反対して南北戦争に参戦するのを避けようとした共和党員でした。

彼の父は州上院議員として「歴史は人々を支配する3つのシステム、奴隷制、農奴制、教育が試されてきたことを教えてくれる。そして最初の2つは悲惨な失敗に終わった」と述べています。

カッブの人種差別は、彼自身の性格によるものだったのです。

『Ty Cobb: Baseball and American Manhood』の著者、スティーブン・エリオット・トリップは次のように述べています「確かにアル・スタンプは、カッブの人種差別を誇張しました。また、その後もカッブの伝記は、スタンプが捏造した主張を繰り返してしまいました。しかし、カッブの人種差別に関する記述がすべて虚偽であったわけではありません」

タイ・カッブ自身は、晩年にウィリー・メイズやロイ・キャンパネラを称賛しています。

ウィリー・メイズを「私が唯一お金を払って見たい選手だ」、ロイ・キャンパネラは「野球史上最高の捕手の一人である」と評価しました。

1952年カッブは「野球における人種統合を支持する」と発言しました。「有色人種の選手が礼儀正しく、紳士的に振る舞う限り、彼らと競争しない理由は世界中どこにもないと思います」と彼は述べました。

しかしポズナンスキーはこのカッブの発言を過大評価すべきでないと指摘します。

この発言がなされたのは1952年です。1947年にジャッキー・ロビンソンがメジャーリーグデビューしてからすでに5年経っていました。1951年にはロイ・カンパネラがMVPを獲得しています。1951年はウィリー・メイズがMLBにデビューした年でもありました。

メジャーリーグが、そしてアメリカが有色人種を野球から排除する後戻りなどできない時代になっていたのです。残念なことにカップはそれまで人種統合について沈黙を保っていました。

しかしカッブの声明は彼の生き方と矛盾するものではありません。彼は自分を人種差別主義者とは考えていませんでした。カッブが一部のアフリカ系アメリカ人に親切でした。しかし彼らには共通点がありました。

カッブの目から見て社会における自分たちの立場をわきまえていること、さらに重要なのはカッブ自身に対して適切な敬意を払い、従順であることでした。カッブは自分が信じる敬意と尊敬を欠いたと感じると、とても残忍になって彼らを暴力的に攻撃したのです。

カッブの再評価

死後50年もの間、タイ・カップといえば悪評ばかりでした。素晴らしい選手だったのは確かです。しかし、それ以上に意地悪で、残虐で、人種差別主義者だったと言われ続けてきました。

「殺人さえも犯した」と言われていました。

しかしこの話はカッブの伝記作者アル・スタンプの作り話でした。スタンプは『Cobb: A Biography』という本で「カッブが自分を襲おうとした男を拳銃の柄で殴り殺したと語った」と記載したのです。しかし元検察官のダグ・ロバーツが徹底的な調査を行い「カッブが問題の日にデトロイトで強盗を殺害した事実は絶対にない」と明らかにしています。

重要なのはカッブが殺人犯でないことではありません。人々がこのような話を信じたがったことが問題なのです。年を経るごとにカッブはより残忍に、より殺人的に、より冷血に、より人種差別的に、そしてより冷酷になっていきました。

カッブを貶めようとする評価は1994年トミー・リー・ジョーンズ主演の映画Cobbでピークに達しました。この映画はカッブを邪悪な漫画のキャラクターのように描いたため、彼を嫌っていた人たちでさえも「やり過ぎだった」と思うようになりました。

そこから「カッブのもう一つの側面を示す」ための反動が始まりました。

カッブの故郷であるジョージア州ロイストンでは、カッブがその町で最初の病院を建てた場所にタイ・カッブ博物館をオープンしました。この博物館では、カッブが恵まれない環境にいる多くの選手たちを密かに支援したことや、野球界での多くの友人関係、そしてカッブの人間性をしめすエピソードが紹介されています。

他にもタイ・カッブに関する記録を修正しようとする話があります。

カッブの「スパイクを研ぐ」という話は間違いなく誇張された完全な作り話です。実際にスパイクを研いでいたのは、好人物として人々に愛されていたナップ・ラジョイ選手でした。

カップの観客に対する乱闘も反論する証拠が提示されています。この事件でカッブが出場停止処分を上けた際、仲が悪いと繰り返し喧伝されたチームメイトたちがカッブのために史上初のストライキを行っています。

何故かこのような事実が指摘されずにカッブは語られてきたのです。

Charles Leerhsen.2015『Ty Cobb: A Terrible Beauty』Simon & Schuster

2015年チャールズ・レアセンが、カップに対する否定的な物語を覆す本を出版しました。この本はカップに対する人々の見方を大きく変えました。真の悪者はカッブではなく、伝記作家のアル・スタンプだったのです。

亡くなる直前、カッブは自分の名誉回復を希望していました。自伝の序文でカッブは語っています「これまで私が巻き込まれた争いや確執は、ことごとく事実を歪めて私を悪者扱いしてきた。批評家たちは好き勝手なことを言ってきたが、今度は私の番だ」

しかしカップの思いは叶いませんでした。スタンプがカップの名声を利用してお金を稼ぐために、ほとんど全てをでっち上げた伝記を書いたのです。

リアーセンの提案は間違いなくタイ・カッブの物語に欠けていたバランスをもたらしました。彼はカッブの人種差別に関しても否定を試みました。しかしポズナンスキーは人種差別に関してはリアーエンの主張は説得力に欠けると考えています。

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