彼の投球は「幾何学の問題」を提示しているようだ!No.34 サイ・ヤング、Joe Posnanski『THE BASEBALL 100』#15

右投げの投手がボールを投げようとしています。投手は20歳ぐらいの白人男性で、白い帽子と白いユニフォームを身に着けています。彼の周りには数学の数式やグラフが描かれています。

サイ・ヤング賞をご存知でしょうか。メジャーリーグでその年に最も活躍した投手を表彰する賞です。最初の受賞は1956年のドン・ニューカム、2023年はサンディエゴ・パドレブレイク・スネルとニューヨーク・ヤンキース のゲリット・コールが受賞しています。

この賞が誕生した背景には、“投手が正当に評価されていないのではないか” という問題意識がありました。当時のメジャーリーグコミッショナーであったフォード・フリックは、投手がいくら活躍しても最終的にMVPを受賞できない現状に疑問を抱いていました。投手も正当な評価を受けるべきであるというフリックの問題意識がサイ・ヤング賞の創設を導きました。

フリックに影響を与えた投手が二人いました。ボブ・フェラーロビン・ロバーツです。

ボブ・フェラー(1918年11月3日-2010年12月15日)
経歴:1936年から1956年までクリーブランド・インディアンス一筋で266勝を記録
功績:アメリカン・リーグで6度の最多勝、7度の最多奪三振を獲得
MVP:受賞歴なし

ロビン・ロバーツ(1926年9月30日 – 2010年5月6日)
経歴:主にフィラデルフィア・フィリーズのエースとして通算286勝をマーク
功績:1950〜1955年の間に4回の最多勝、5回の最多投球回数を達成、シーズン28勝7敗という圧巻の成績を残したこともあります
MVP:受賞歴なし

こうした現状を問題視したフォード・フリックは「投手だけを表彰する賞」の構想を持ち、世に提案します。フリックが「投手のための賞」を設立するアイデアを発表するとフェラーやロバーツの業績を無視し続けた記者たちは、「投手をMVPの対象から除外しようとしている」とフリッグの意図をあえて誤解し、強く反発しました。

一方でMVPを受賞した投手が歴史上皆無でないことを理由にして「投手のための賞」は馬鹿げたアイデアだと見なす人たちもいました。今考えると不思議ですが、当時は「投手のための賞」というアイデアを提唱するだけで論争が起きたのです。

しかし1955年に「投手のための賞」を創設するきっかけになる出来事が起こります。同年11月4日にサイ・ヤングが亡くなったことでした。ヤングの偉大な功績を敬い、翌1956年、フリックは反対する声を振り切る形で「サイ・ヤング賞」の創設を決定します。こうして誕生した投手専用の賞に、異を唱える人はほぼいなくなりました。

サイクロン・ヤング

デントン・トゥルー “サイ” ヤング(1867年3月29日 – 1955年11月4日)キャリア最多の511勝、キャリア最多の敗戦、失点、被安打、投球回、被安打のMLB記録を保持している野球史上最も偉大な投手の一人です。ヤングの死から1年後の1956年、彼の名にちなんだ投手のためだけの賞である「サイ・ヤング賞」が創設されました。

ヤングは1890年、オハイオ州カントンを本拠地とするカントン・ナジーズというプロ・マイナーリーグのチームでプロとしてのキャリアをスタートしました。それまで彼は農夫として故郷のオハイオ州ギルモアで生活していました。

当時のヤングは世間知らずの田舎の青年でした。しかしカントンに現れたヤングはとてつもなく速い球も投げました。地元の新聞はチームの捕手であるヘンリー・ヤルクの安全を心配するほどでした。

ヤングはすぐにスターとなり、新聞は彼を「サイクロン・ヤング」と呼び始めました。

1890年ヤングはメジャーリーグのクリーブランド・スパイダースと契約し、クリーブランドでも瞬く間にスター選手になります。新聞もヤングに驚嘆して次のような記事を書いています。

ボールを投げるというより、打者に幾何学の問題を提示して答えを求めるようだ」

1892年にナショナルリーグ最高の防御率1.93を記録して36勝を挙げました。1893年は33勝を挙げ、三振と四球、ホームランのみで算出するフィールドインディペンデントピッチング(FIP)という指標でリーグトップになります。1894年から1900年にかけて181勝112敗、ERA+1138を記録し、勝利数と三振、完封、完投、WHIP、FIPなど各部門でリーグのトップに立ちました。

1901年には新興のアメリカンリーグに移籍し、この年と1902年はリーグの最多勝を獲得しました。1901年には33勝、1.62の防御率、158三振で投手三冠王を達成。1903年も再びリーグトップの勝利数と完投数、シャットアウト数、投球イニング数を記録しています。このシーズンはワールドシリーズも制覇しました。

1904年はキャリア最高の10試合の完封勝利を達成し、WHIPはリーグトップの0.93を記録、アメリカンリーグ史上初の完全試合も達成しています。その年、ヤングはキャリア16度目にして最後の20勝を達成しました。防御率は1.26でノーヒットノーランも達成しています。スピードが衰えた後はコントロールに頼って投げ続け1911年に引退しました。

変わっていく野球

ヤングが活躍した時代は野球が大きく変わりました。

1893年、マウンドの位置が後ろに下げられました。ホームベースとの距離が50フィート(15.24メートル)から60フィート6インチ(18.29メートル)に遠くなったのです。

1894年、ナショナルリーグはファウルボールをストライクに判定することにしました。

1903年、アメリカンリーグでもファウルボールがストライクとして扱われるようになります。

1904年にはマウンドが低くなりました。

1908年、投手が新しいボールを故意に汚すことが禁止されました。

ヤングは規則が変わっても活躍し続けました。1892年と1908年では野球は全く違うゲームになっていました。しかし、このような状況でもヤングは最高の投手であり続けます。「時代を超えた投手」彼は奇策などには頼りませんでした。

結局は最初の話に戻ります。「ヤングは打者に幾何学の問題を提示して、答えを求めました」彼はその幾何学の問題を40歳代半ばになるまで出し続けたのです。

512勝?

ヤングの511勝という最多勝利記録は破られることはないでしょう。彼はさらに野球史上最多の約30,000人の打者と対戦しています。2位の投手と比べて4,000人以上多くのバッターと対戦しているのです。

最多対戦打者数
  1. サイ・ヤング (Cy Young) — 29,565人
  2. パッド・ギャルビン (Pud Galvin) — 25,415人
  3. ウォルター・ジョンソン (Walter Johnson) — 23,405人
  4. フィル・ニークロ (Phil Niekro) — 22,677人
  5. ノーラン・ライアン (Nolan Ryan) — 22,575人

4,000人の打者と対戦するには4シーズンが必要です。

それでもヤングといえば最多勝利です。1955年にレッド・スミスは次のような記事を書いています。

いつか、バッターがベーブ・ルースのシーズン60本塁打を超える日が来るかもしれない。もしかすると、まだ生まれていないジョー・ディマジオが57試合連続安打を達成するかもしれない。あるいは、新しいルーブ・マークワードやティム・キーフが20勝無敗を達成するかもしれない。しかしサイ・ヤングの511勝は、誰もその記録を脅かすことはないだろう。なぜなら、それは不可能であり、常にそうだったからだ

ヤングの記録の半分は野球が発展途上であった1890年代に記録されたものです。そして残りの半分は現在「近代野球」と見なされる時代に達成されました。

サイ・ヤングの勝利数から、マウンドの位置が後ろに移動するまでの勝利を取り除くと439勝になります。それでもまだ最多勝利記録です。ヤングの511勝は野球の魔法の数字であり、再現不可能な記録なのです。

しかしポズナンスキーは、サイ・ヤングの511勝に関しては次の話が最も気に入っているようです。

「本当は512勝していたんだ」

ヤングはこのことを執拗に語りました。晩年になってもインタビューで「1898年の試合で公式記録員が僕の勝利を盗んだ」としつこく訴えています。彼は様々な資料を引用しながら、どのようにして勝利が奪われたか細かく説明し続けました。

511勝と512勝の違いは、結局のところ何なのでしょう。大した差ではないように思えますが、サイ・ヤングにとっては大きな問題だったのです。偉大なキャリアを持つ謙虚な男として、彼は自分の人生で挙げたすべての勝利を正当に評価して欲しかったはずです。

サイ・ヤング賞

1955年11月4日、サイ・ヤングが亡くなると野球界から惜しみない愛と称賛の声が寄せられました。

「彼はまさに、古き良き時代の生粋の選手だった」タイ・カッブ

「野球の真のパイオニアの一人だった」トリス・スピーカー

「偉大な投手には欠かせない3つの資質、スピード、コントロール、スタミナを全て備えていた」エルマー・フリック

「彼の偉大な記録は永遠に破られないだろう」アメリカンリーグコミッショナー、ウィル・ハリッジ

「彼は史上最高の投手だった」エド・ウォルシュ

コニー・マック監督の娘は、父親にヤングの死を知らせることさえ拒みました。彼女は年老いた父が立ち直れないほど落ちこむことを心配したのです。それほどまでにサイ・ヤングは偉大で愛された存在でした。

そしてヤングが亡くなった時にフォード・フリックはあらゆる雑音を遮り、彼が考案した投手のための賞を実現しました。彼はその賞を「サイ・ヤング賞」と名付けたのです。

「サイ・ヤング賞」に反対できる人はいませんでした。

「幾何学の問題」を投げ続けた男

サイ・ヤングは、野球のルールが大きく変化する時代を40代半ばまで第一線で投げ抜き、“打者に幾何学の問題を解かせる”ような投球術を貫きました。その偉大な功績とスピリットは、彼の名を冠したサイ・ヤング賞として、今も毎年表彰される投手の頂点に受け継がれています。

彼が打ち立てた511勝という記録は、野球史において不滅の金字塔。ヤングがこだわり続けた「512勝」の主張は、それだけ一つ一つの勝利に誇りを持ち、真摯に取り組んでいた証なのかもしれません。投手の評価を高めるサイ・ヤング賞の誕生は、彼の死を悼む野球界全体の想いが結実したものです。

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