法然院の枝垂れ桜の下に、谷崎潤一郎の墓はあります。

法然院の参道から眺めた山門の写真です。山門を額縁にして庭の木々が見えています。

57歳でフリーターになった Un lapinです。平日に二泊三日の京都旅行をしました。

前回の記事では、谷崎潤一郎(1886-1965)が『月と狂言師』で風雅な月見の様子を描いた南禅寺を紹介しました。

『月と狂言師』で谷崎潤一郎が月見をした南禅寺は、朝の散歩にお勧めです。

今回は、谷崎潤一郎のお墓がある鹿ヶ谷の法然院へ向かいました。

法然院

東山の麓を哲学の道に沿って北へ歩くと、南禅寺から15分ほどで法然院に着きます。

法然院の入り口に立っている石碑の写真です。2m程の高さの白い石で作られています。表面には「大本山鹿ケ谷法然院」と刻まれています。

山門

参道を左へ進むと数寄屋造りの山門があります。

法然院の山門の写真です。茅葺の屋根が苔むして緑色になっています。
山門を額縁にして庭が見え、苔むした茅葺き屋根の緑が周囲の景観と調和しています。

白砂壇

山門をくぐると2つの整えられた盛砂があります。白砂壇といい、水を表わしています。砂壇の間を通ることで心身が清められて浄域に入ることが出来ます。

法然院の白砂壇の写真です。縦3m、横1.5m程の白い盛り砂が左右にあります。その間を通って庭へ入ります。
盛砂の上の模様は水紋や波、渦、葉、花など季節により変わります。

白砂壇の表面の模様です。砂で桜の花が描かれています。私が訪れた3月末には、桜の花が描かれていました。

この先に美しい庭が続いています。中央に阿弥陀三尊石を配置した浄土式庭園です。

中興以来絶えることなく湧き出ている善気水を水源とする池があります。善気水は洛中名泉として有名です。

手水鉢の写真です。赤色と白色の椿の花が水に浮かべられています。清らかな水が流れています手水鉢には椿が浮かべられていました。

敷地は狭いですが、緑豊かで東山の清廉な空気を感じます。

朝早いので私の他に参拝者はいません。 鹿威しの音だけが響き、厳粛な時間を過ごせました。

墓石

引き返して山門を出ると、左に墓地があります。

法然院の墓地の様子です。北山の麓にあります。桜の木が一本植わっています。この桜の下に谷崎潤一郎の墓所があります。

一番奥の高いところが谷崎潤一郎の墓所です。

谷崎潤一郎夫妻の墓石の写真です。谷崎潤一郎の直筆による寂という字が彫られています。薄い灰色の鞍馬石で、高さ1m、幅2m程の大きさです。

谷崎潤一郎夫妻の墓石の右側にある墓石の写真です。谷崎の妻の妹夫婦のお墓です。空という字が彫られています。高さ1m、幅50cm程の大きさです。

鞍馬石の自然石で作られた墓石が二基。向かって左の墓石に「寂」、右に「空」と谷崎潤一郎の自筆が彫られています。

左側が谷崎夫妻、右側が谷崎夫人の妹重子夫妻のお墓です。光と影の姉妹、松子と重子を谷崎が守っています。

『瘋癲老人日記』は谷崎潤一郎自身が「仰木老人」のモデルとされる小説です。この中で老人は息子の嫁の颯子を連れて京都へ行き、自分の墓地を法然院に決めています。

谷崎潤一郎が墓所をこの地に決めたのは『瘋癲老人日記』の口述開始の3カ月前、昭和36年春でした。この頃はまだ元気で、毎年春秋の京都行きが恒例になっていました。

墓所は一番奥の東側の高いところにあります。自分で見に行ったときに折から西山に赤々と沈む夕陽を見て正方浄土の様だと気に入って決めたところです。

谷崎潤一郎、渡辺千萬子「文庫版のためのあとがき」『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』中公文庫、2006年、p425 より引用

渡辺千萬子さんは『瘋癲老人日記』の颯子のモデルと噂されている女性です。谷崎の義理の娘にあたりますが、その関係は複雑です。

谷崎松子婦人には前夫根津清太郎との間に長男清治がいました。清治の嫁が千萬子です。清治は松子の妹渡辺重子の養子になっているので、千萬子さんは渡辺姓になっています。

千萬子さんは日本画家の橋本関雪(1883-1945)の孫として京都に生まれ育ち、糺の森の「後の潺湲亭」で谷崎潤一郎やその家族と4年間暮らしました。

谷崎と千萬子さんの往復書簡をまとめた『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』を読むと、晩年の谷崎にとって千萬子さんが私生活だけでなく創作にも影響を与えていたことが分かります。

法然院の墓地も、千萬子さんの女学校の同級生が住職夫人だった縁で譲ってもらえました。

谷崎はこの墓地がとても気に入っていました。

帰宅後の先生は、有名な京大の河上肇教授のお墓の前の坂をちょっと上った所で、日本画家の福田平八郎家の隣です、なかなかいいとこですよ、と、嬉しそうにおっしゃった。

伊吹和子『われよりほかに ― 谷崎潤一郎最後の十二年』講談社、 1994年、p380 より引用

小説では墓所を決めた後、仰木老人は墓石の様式について迷います。最初は五輪塔、次に颯子を模した菩薩像を思いつき、モデルが颯子だとばれない方策を色々考えます。

そのうち、とんでもないアイデアが浮かびます。颯子の足裏を拓本にとって佛足石を彫らせ、死後はその石の下に骨を埋めてもらうというのです。

彼女ガ石ヲ蹈ミ着ケテ、「 アタシハ今アノ老耄レ爺ノ骨 ヲコノ地面ノ下デ蹈ンデヰル」ト感ジル時、予ノ魂モ何処カシラニ生 キテヰテ、彼女ノ全身ノ重ミヲ感ジ、痛サヲ感ジ、足ノ裏ノ肌理ノツルツルシタ滑ラカサヲ感 ジル。死ンデモ予ハ感ジテ見セル。

谷崎潤一郎「瘋癲老人日記」『 谷崎潤一郎全集 第19巻』中央公論社、 1968年、p156 より引用

お骨になっても永遠に愛する人に踏み続けられたい、本当の大往生です。

昭和38年5月17日に谷崎から千萬子さんへ歌が贈られています。

薬師寺の如来の足の石よりも君が召したまふ沓の下こそ

谷崎潤一郎、渡辺千萬子『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』 中公文庫、2006年、p323 より引用

小説の老人は自分の墓石のために京都のホテルで颯子の足裏の拓本をとります。

「君ノ足ノ裏ヲ叩カセテ貰ウ。サウシテコノ白唐紙ノ色紙ノ上ニ朱デ足ノ裏ノ拓本 ヲ作ル」 「ソンナモノガ何ニナルノ」 「ソノ拓本ニモトヅイテ、颯チャンノ足ノ佛足石ヲ作ル。僕ガ死ンダラ骨ヲソノ石ノ下ニ埋メテ貰フ。コレガホントノ大往生ダ」

谷崎潤一郎『瘋癲老人日記 谷崎潤一郎全集 第19巻』中央公論社、 1968年、p154 より引用

この後、血圧が高くなり老人の日記は終わります。

谷崎に足裏の拓本をとられた女性が実在します。1951年(昭和26年)頃のことで、相手は二十歳にもならないヨシさんというお手伝いさんでした。「前の雪後庵」での出来事です。

書斎に着くと、先生はまず彼女のソyクスを脱がせ、洗面所の流しー
銅板が張ってあって、水道を出すと跳ね返って大きな音がしたーで、手ずから丁寧に足を洗って下さり、趾の股までタオルで拭いて、高い
椅子に腰掛けさせ、自分は時間をかけて、硯になみなみと朱墨をお摺りになる。手伝いましよか、と言っても、手出しをするなと言われる。小柄なヨシさんは、その椅子に掛けたのでは足がちゃんと下につかず、その間、手持ち無沙汰のまま、ぶらんぶらんさせて待っている。先生はやがてその足に、タンポに含ませた朱墨を塗りたくって、色紙を押しつけたり、椅子から降して、色紙の上を歩かせたりなさった・・・・・と、ヨシさんは言った。

伊吹和子『われよりほかに ― 谷崎潤一郎最後の十二年』講談社、 1994年、p363 より引用

拓本をとった谷崎は65歳でした。平均寿命は当時が62歳、2016年(平成28年)は81歳なので、現在の感覚では80歳過ぎた老人が若い女の子の足裏の拓本をとっていたことになります。

『瘋癲老人日記』が書かれたのは拓本から10年後の1961年(昭和36年)です。谷崎は75歳、現在なら90歳に相当します。

作家のつきることのない好奇心と芸術に対する情熱に感心しました。

紅しだれ

法然院の墓地には東山を背にして枝垂れ桜が植わっています。桜の下に谷崎潤一郎の墓石があります。

谷崎潤一郎の墓所に植わっている枝垂れ桜の写真です。この木の下に谷崎潤一郎の墓石があります。

谷崎の墓所には平安神宮と同じ枝垂れ桜が植わっています。

平安神宮の神苑に植わっている八重紅枝垂桜は京都の近衛家の邸内にあった桜に由来します。谷崎潤一郎は生前、この花をこよなく愛しました。

あの、神門を這入って大極殿を正面に見、西の廻廊から神苑に第一歩を踏み入れた所にある数株の紅枝垂、―― 海外にまでその美を謳われていると云う名木の桜が、今年はどんな風であろうか、もうおそくはないであろうかと気を揉みながら、毎年廻廊の門をくぐる迄はあやしく胸をときめかすのであるが、今年も同じような思いで門をくぐった彼女達は、忽ち夕空にひろがっている紅の雲を仰ぎ見ると、皆が一様に、
「あー」
と、感歎の声を放った。この一瞬こそ、二日間の行事の頂点であり、この一瞬の 喜びこそ、去年の春が暮れて以来一年に亘って待ちつづけていたものなのである。

谷崎潤一郎『細雪』中公文庫、1983年、p152 より引用

谷崎潤一郎は引っ越した住居に京都から取り寄せた桜を植えていました。

『老後の春』に京都から移り住んだ伊豆山鳴沢の桜の様子が語られています。平安神宮の春のような景色を楽しみたい、というのが谷崎潤一郎の長年の夢でした。

しだれ桜の支柱を伊豆では作れず、京都から職人を呼んで作らせたことがあったそうです。

ところで、先生はかねてから、庭のしだれ桜の若木に支柱を作りたいと思い続け、何度も植木屋の中田さんに頼んでおられた。桜の木は京都からわざわざ取り寄せられたものであったが、京都では、斜めに傾けた棚のような状態の支柱が、木の周りに高低をつけていくつか造られ、そこに垂れた枝を載せて張り出させてあるので、満開の時の桜の木全体が、花傘を広げたようになる。雪後庵の庭でもそんな風情の花を咲かせて、平安神宮の春のような景色を楽しみたいというのが、先生の長年の夢であった。

伊吹和子『われよりほかに ― 谷崎潤一郎最後の十二年』講談社、 1994年、p262 より引用

谷崎の桜に関する話はつきません。

京都は桜の名所が多くあります。皆さんもぜひ楽しんでください。

「京都」の記事です。

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