『月と狂言師』の舞台、谷崎潤一郎が「月見の宴」を愉しんだ南禅寺金地院

南禅寺の塔頭のひとつ、金地院の門の様子です。金地院と書かれた表札が掛かっています。

平日に二泊三日の京都旅行をしました。

早起きして南禅寺

三門水路閣、名庭など見どころは豊富ですが、今回の目的は金地院

谷崎潤一郎(1886-1965)『月と狂言師』の舞台になった南禅寺の塔頭です。

南禅寺

地下鉄東西線の蹴上駅

ねじりマンボと呼ばれるトンネルの写真です。煉瓦で作られた古いトンネルです。

地上にあがると、ねじりまんぽとも呼ばれる煉瓦造りの蹴上トンネルがあります。

トンネルを抜けて通りを進むと

谷崎潤一郎の『月と狂言師』の舞台になった金地院が左手に見えてきます。

金地院

南禅寺の塔頭のひとつ

足利義持が創建した建物が移築されています。

金地院の建物の写真です。ここで谷崎潤一郎は月見をしました。

1948年(昭和23年)秋

金地院で催された月見をかねた狂言と小舞の会に谷崎潤一郎は招かれます。

京都に本拠をおく大蔵流狂言の茂山千五郎一家と弟子たちによる洒脱な催しと風雅な月見

子どもの狂言から始まり、小舞、狂言と続きます。

この後に番外として、二世茂山千作(1864-1950)が『弱法師』、十一世茂山千五郎(1896-1986)が『福の神』を谷崎夫妻のために舞いました。

狂言が終わると、食事と酒が振る舞われて月の出を待ちます。

千作が唄を微吟し出すと、一同が後について合唱

声はだんだん大きくなって行きます。

そのうち、月白により辺りがぽうっとしてきました。

いよいよ山の彼方の空が明るくなったが、何だか月が大勢の合唱に釣り出されつつ、しずしずと舞台へセリ上がって来る感じで、その堂々たる出方は千両役者が登場するようでもある。

谷崎潤一郎『月と狂言師』中公文庫、2005年、p24 より引用

なんとも風雅な情景です。

月が中天に懸ると一転、酒席とな

千作を始めとした狂言師のかくし芸が披露されます。

それからあと、いろいろな人が代るがわる跳び出して来てはありとあらゆる滑稽、猥雑、狼藉の限りを尽したが、誰が何をやったのであったか一々は覚えていない。私は依然として勾欄に靠れながら、おりおり外に眼を移すと、中天にある月も、水面にある影も、此の騒ぎとは無関係にいよいよ冴え渡り、睡蓮の葉は前にもましてつややかにきらめいているのであった。

谷崎潤一郎『月と狂言師』中公文庫、2005年、p28 より引用

茂山家の人々と弟子たちが心から楽しんでいる様子が伝わります。

笑い、楽しさ、仲の良さ、気取りのなさ

一流の芸人たちが谷崎のために尽くす贅沢な時間が過ぎていきました。

前の潺湲亭

この頃谷崎潤一郎は南禅寺門前の家に住んでいました。

前の潺湲亭」です。

初めてこの家を見に行ったときに谷崎は窓の外に流れる白川の水音を聞きながら亭号を思いつきます。

潺湲居」か「潺湲亭

悩んだあげく「潺湲亭」に決めました。

その家は、南禅寺の門前から永観堂や若王子の方へ行く道にあって、うしろに白川が流れてい、一番奥の八畳の間は水に沿うて建てられていて、窓の下をゆくせゝらぎの音がすわっていてもしめやかに聞えた。

谷崎潤一郎、「潺湲亭」のことその他、月と狂言師 中公文庫 2005年、p152 より引用

中国から来日していた錢痩鉄氏が篆刻と額の揮毫を快諾してくれたので、入居する前に亭号と額の文字が出来ていたそうです。

水上勉

1947年(昭和22年)に水上勉(1919-2004)がこの邸を訪ねています。

水上勉は文潮社という出版社の嘱託

谷崎の『愛すればこそ』という作品を掲載する許諾をもらいに行きました。

やがて奥から先生が出てこられた。黒っぽい着物に角帯をしめ、前かけをして、ずんぐり肥っておられるそのお姿は、想像してきたのとちがって、私が小僧の時代に、どこかでみたような、商家か檀家の御主人のようなかんじである。するどい眼でじろりとみられた。私は射すくめられる気がした。

水上勉「谷崎潤一郎先生のこと」『谷崎潤一郎全集 第19巻月報』中央公論社 、1968年、p1 より引用

緊張した水上勉の様子が窺えます。

後年谷崎は水上勉『越前竹人形』の批評を毎日新聞に掲載しました。

私は、十二日の夕刊をみて、毎日新聞の本社を訪ねて、浜田琉司さんから、先生のお原稿をみせて頂いた。眼頭があつくなった。先生は、題字を自書され、本文は口述されて細かに筆記させられたらしく、その誰かの字を、ところどころでいねいに消し改めたり、書き足したりしておられた。先生の字は、心もちふるえていた。インキの色がそこだけ変っている。その色が私の限に沁みた。十二日、十三日、十四日分と三回を全部通読する機会をあたえられたのだが、浜田さんの前でわけもなく私はふるえてしまった。

水上勉「谷崎潤一郎先生のこと」『谷崎潤一郎全集 第19巻月報』中央公論社 、1968年、p1 より引用

谷崎は水上の「越前竹人形」を絶賛

だがまあ、何のかのと云ふものの、私は近頃これほど深い興味を以て讀み終ったものはなかった。めったに若い人の作品を讀んだことのない私であるから、知った風なこと云へないけれども、嘗て深澤七郎君の「楢山節考」を読んで以来の感激である。

谷崎潤一郎「『越前竹人形』を讀む」『雪後庵夜話』中央公論社、1967年、p170 より引用

谷崎が亡くなるまで秘書を務め伊吹和子は、谷崎が『越前竹人形』の読後感を書くことで『夢の浮橋』への愛着を一段と深めて行く結果になった、と記しています。

この2年後、1965年(昭和40年)に谷崎潤一郎は79歳で没しました。

谷崎潤一郎と京都の記事です

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