谷崎潤一郎の墓は京都の法然院にあります。
場所は東山の麓、鹿ヶ谷。
参道の石段を登り、右へ進むと墓地。
墓地の奥に1本のしだれ桜。
平安神宮の紅しだれと同じ桜。
生前の谷崎が愛した花です。
この桜の下に谷崎潤一郎の墓があります。
墓所の購入
谷崎潤一郎が墓所をこの地に決めたのは『瘋癲老人日記』の口述を開始する3カ月前。
1961年(昭和36年)の春。
この頃の谷崎はまだ元気で、毎年春秋の京都行きが恒例でした。
墓所は一番奥の東側の高いところにあります。自分で見に行ったときに折から西山に赤々と沈む夕陽を見て正方浄土の様だと気に入って決めたところです。
谷崎潤一郎、渡辺千萬子「文庫版のためのあとがき」『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』中公文庫、2006年、p425 より引用
『瘋癲老人日記』に谷崎自身がモデルとされる「仰木老人」が墓地をもとめる様子が描かれています。
兎ニ角京都ニ埋メテ貰ヘバ東京ノ人モ始終遊ビニ来ル。「ア、コヽニアノ爺サンノ墓ガアッタッケナ」ト、通リスガリニ立チ寄ッテ線香ノ一本モ手向ケテクレル。江戸ッ子ニ一向由縁ノナイ北多摩郡ノ多摩墓地ナンゾニ葬ムラレルヨリ遥カニ優シダ。「サウ云フ意味カラハ法然院ガ一番適嘗ヂャナイデセウカ」ト、曼殊院ノ階段ヲ下リナガラ五子が云フ。
谷崎潤一郎「瘋癲老人日記」『 谷崎潤一郎全集 第19巻』中央公論社、 1968年、p139 より引用
仰木老人は息子の嫁の颯子を連れて京都へ行き、自分の墓地を法然院に決めました。
渡辺千萬子
颯子のモデルは義理の娘の渡辺千萬子さん。
千萬子さんは日本画家の橋本関雪(1883-1945)の孫として京都に生まれました。
千萬子さんと谷崎の関係は複雑です。
谷崎の妻松子さんには、前夫根津清太郎との間に長男清治がいました。
清治の嫁が千萬子さん。
清治は松子の妹渡辺重子の養子になっていたので、千萬子さんの姓は渡辺となります。
糺の森の「後の潺湲亭」で谷崎やその家族と一緒に4年間暮らしました。
谷崎と千萬子さんの往復書簡をまとめた『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』を読むと、晩年の谷崎にとって千萬子さんが私生活だけでなく創作にも影響を与えていたことが分かります。
法然院の墓地も、千萬子さんの女学校の同級生が住職夫人だった縁で譲ってもらいました。
帰宅後の先生は、有名な京大の河上肇教授のお墓の前の坂をちょっと上った所で、日本画家の福田平八郎家の隣です、なかなかいいとこですよ、と、嬉しそうにおっしゃった。
伊吹和子『われよりほかに ― 谷崎潤一郎最後の十二年』講談社、 1994年、p380 より引用
この墓地は谷崎のお気に入りでした。
墓石と拓本
『瘋癲老人日記』
小説では墓所を決めた後、仰木老人が墓石の様式について迷います。
最初は五輪塔、次に颯子を模した菩薩像を思いつき、モデルが颯子とばれない方策を色々考えます。
そのうち、とんでもないアイデアが浮かびました。
颯子の足裏を拓本にとって佛足石を彫らせ、死後はその石の下に骨を埋めてもらうというのです。
彼女ガ石ヲ蹈ミ着ケテ、「 アタシハ今アノ老耄レ爺ノ骨 ヲコノ地面ノ下デ蹈ンデヰル」ト感ジル時、予ノ魂モ何処カシラニ生キテヰテ、彼女ノ全身ノ重ミヲ感ジ、痛サヲ感ジ、足ノ裏ノ肌理ノツルツルシタ滑ラカサヲ感ジル。死ンデモ予ハ感ジテ見セル。
谷崎潤一郎「瘋癲老人日記」『 谷崎潤一郎全集 第19巻』中央公論社、 1968年、p156 より引用
お骨になっても愛する人に永遠に踏み続けられる。
まさに大往生。
1963年(昭和38年)5月17日に谷崎から千萬子さんへ歌が贈られています。
薬師寺の如来の足の石よりも君が召したまふ沓の下こそ
谷崎潤一郎、渡辺千萬子『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』 中公文庫、2006年、p323 より引用
小説で老人は、京都のホテルで颯子の足裏の拓本をとりました。
「君ノ足ノ裏ヲ叩カセテ貰ウ。サウシテコノ白唐紙ノ色紙ノ上ニ朱デ足ノ裏ノ拓本ヲ作ル」 「ソンナモノガ何ニナルノ」 「ソノ拓本ニモトヅイテ、颯チャンノ足ノ佛足石ヲ作ル。僕ガ死ンダラ骨ヲソノ石ノ下ニ埋メテ貰フ。コレガホントノ大往生ダ」
谷崎潤一郎『瘋癲老人日記 谷崎潤一郎全集 第19巻』中央公論社、 1968年、p154 より引用
この後、血圧が高くなり老人の日記は終わります。
足裏の拓本
谷崎に足裏の拓本をとられた女性が実在します。
1951年(昭和26年)頃のことで、相手は二十歳にもならないヨシさんというお手伝いさん。
熱海市仲田の「前の雪後庵」での出来事でした。
書斎に着くと、先生はまず彼女のソックスを脱がせ、洗面所の流しー銅板が張ってあって、水道を出すと跳ね返って大きな音がしたーで、手ずから丁寧に足を洗って下さり、趾の股までタオルで拭いて、高い椅子に腰掛けさせ、自分は時間をかけて、硯になみなみと朱墨をお摺りになる。手伝いましよか、と言っても、手出しをするなと言われる。小柄なヨシさんは、その椅子に掛けたのでは足がちゃんと下につかず、その間、手持ち無沙汰のまま、ぶらんぶらんさせて待っている。先生はやがてその足に、タンポに含ませた朱墨を塗りたくって、色紙を押しつけたり、椅子から降して、色紙の上を歩かせたりなさった・・・・・と、ヨシさんは言った。
伊吹和子『われよりほかに ― 谷崎潤一郎最後の十二年』講談社、 1994年、p363 より引用
拓本をとったときの谷崎は65歳、当時の平均寿命は62歳でした。
2020年(令和2年)の平均寿命は81歳なので、現在の感覚では80歳過ぎた老人が若い女性の足裏で拓本をとっていたことになります。
『瘋癲老人日記』が書かれたのは拓本から10年後。
1961年(昭和36年)、谷崎が亡くなる4年前でした。
谷崎は75歳、現在なら90歳に相当します。
作家のつきることのない好奇心、芸術に対する情熱に感嘆するしかありません。
谷崎潤一郎の墓石
墓所には鞍馬石の自然石で作られた二基の墓石が並んでいます。
「寂」
向かって左側は谷崎夫妻のお墓。
谷崎の自筆で「寂」と彫られています。
墓石の「寂」について瀬戸内寂聴が語っています。
寂というのは心と身体の煩悩の炎が静まった静かな状態。死ねば炎も消えてしまう。谷崎さんは仏教の本も多く読んでいますよ。
『谷崎を歩く、第七回 京都・法然院』より引用
墓石は亡くなる2年前に谷崎自身が鴨川で選び出した鞍馬石。
二年前の秋に、此の墓石を捜し求め、石屋のあるじの案内で、鴨川堤は葵橋の上の土堤下の空地に、大小さまざまの形の石がごろごろと横たわる間をあなたに立ちこなたに佇み、丹念に眺め廻して選んだ鞍馬石が法然院の墓地に運ばれ、それが永遠の眠の標となった。
谷崎松子『倚松庵の夢』中央公論新社、1979年、p52より引用
「空」
右側は谷崎夫人の妹重子夫妻のお墓。
墓石には「空」。
松子と重子の姉妹を守りながら、愛した京都に谷崎潤一郎は眠っています。
谷崎潤一郎と京都について書いています。


