自ら食魔と称した谷崎潤一郎、1年間の食費は2,880万円にもおよびました。
1949年(昭和24年)当時の谷崎家の食費は1か月30万円超(高峰秀子『わたくしの渡世日記 下より)
今から70年以上前の話です。
週刊朝日編集部『値段の明治・大正・昭和風俗史』 によると当時ラーメンは23円、公務員の初任給は4,863円でした。
2020年(令和2年)の消費者物価指数を1949年(昭和24年)の約8倍なので、現在の価値で谷崎家の食費は年2,880万円になります。
谷崎潤一郎はどんな生活をしていたのでしょうか
「食いしん坊」な文豪谷崎潤一郎の食のエピソードを追ってみました。
食いしん坊な文豪
「天ぷら喰いたい、天ぷら喰いたい」
5歳頃、1891年(明治24年)
谷崎潤一郎の最も古い記憶はこの時期のもの
乳母に抱かれながら「天ぷら喰いたい、天ぷら喰いたい」と聞こえる三味線の節に耳を澄ましました。
日本橋にゐた時分、乳母の懐に抱かれて布團の中に睡りかけてゐると、私はよくあの三味線の音を聞いた。
「天ぷら喰ひたい、天ぷら喰ひたい」
と、乳母はいつも其の三味線の節に合はせて吟んだ。
「ほら、ね、あの三味線の音を聞いてゐると、天ぷら喰ひたい、天ぷら喰ひたい、と云ってゐるやうに聞こえるでしょ、ねえ、聞えるでございましょ」
さう云って乳母は、彼女の胸に手をあてゝ乳首をいぢくってゐる私の顔を覗き込むのが常であった。
谷崎潤一郎『幼少時代』谷崎潤一郎全集 第17巻、中央公論社、1982年、 p54-55より引用
最初の記憶が「天ぷら喰いたい」食に対するこだわりの原点がこのときに生まれました。
栴檀は双葉より芳し
10歳頃、1895年(明治29年)
幼少期は豊かな生活を送りました。
一代で財を成した祖父・谷崎久右衛門の死後は父親の事業がうまくいかず家勢は衰えます。しかし父親は世間に名の聞えた「ちょっと通な食べ物屋」をよく知っていて、二人でよく出かけたそうです。
『幼少時代』に店が紹介されています。
山谷の重箱(鰻、川魚料理)
銀座の天金(天ぷら)
冬木の米市(そば)
根岸の笹の雪(豆腐)
銀座の天金では「それは子供の食うもんじゃあねえ」と父親に言われながら「いかの塩辛」を味わいました。
生れて始めてちょっぴり舌の先で「いかの塩辛」、舐めた感想は「何という世にも複雑な旨い味のするものだろう」
食に対する感性は幼い頃から養われていたようです。
「喰ひしん坊」になった原因
16歳頃(書生時代)、1902年(明治35年)
家業が逼迫し上級学校への進学を危ぶまれましたが、漢文教師渡辺盛衛や上野精養軒主人北村重昌の篤志によって書生として家庭教師をしながら府立第一中学校に通いました。
しかし書生時代の食生活は侘しいもの、谷崎潤一郎自身「喰ひしん坊」になったのは書生時代の経験が應えたためと述べています。
旦那や奥さんがお留守の時でも、コック場からはお料理を届けてまいりますので、さう云う時はそのお料理が坊っちゃん方の口へ這入ります。さう云う時の羨ましさ、恨めしさ、ほんとに涙が出るほどでございましたな。
後年手前が人並外れた健啖家になり、喰ひしん坊になりましたのも、あの時分の経験がよく/\胸に應えたへてたせゐかも知れません。さうしてみますと書生奉公なんてものは、あんまりためにはならないものかも分りませんな。
谷崎潤一郎『当世鹿もどき』中央公論社、1961年、p111-112より引用
裕福な生活から一転した惨めな生活、この時期の屈辱と食べ物への執着が後の食へのこだわりを育みました。
壮烈に食べる
41歳、1927年(昭和2年)
谷崎潤一郎は後に結婚する根津松子と出会います。松子によると壮年期の谷崎潤一郎は壮烈な食べ方をしていました。
「僕は義歯でないんだよ」と食事の時に自慢していらっしゃいました、と婦人の言葉に思い起されるのは、最初出遭った頃の乱杭歯で、遮二無二その歯で食物を、咀嚼すると云うより肉を裂くと云う方が適切な感じがする程、一種壮烈な食べ方が今もまざ/\と目に浮かぶ。義歯でなかった頃の谷崎を妹の亡き夫の明さんが、歯がお茶椀にガチ/\と当るさまを始めて見た時には、お茶椀が欠けはせぬかと呆然としたと云う話を覚えているが、華族出身で至って躾の厳しかった人には、驚くのは無理からぬことであったろう。
谷崎松子『倚松庵の夢』 中央公論新社、1979年、p114より引用
お茶碗が欠けるのではないかと心配になるほど、茶碗に歯をガチガチあてながら遮二無二食事をする谷崎潤一郎
美味しいものをひたすら食べる、食にかける熱い気持ちが伝わります。谷崎潤一郎自身も「美食の味は色気やお洒落をそっちのけにして、牛飲馬食するところにあるのだ」と語っています。
熟柿「ずくし」
44歳、1930年(昭和5年)
関西に移住して『痴人の愛』『卍』『春琴抄』『武州公秘話』などを発表
私生活では最初の妻千代と離婚、古川丁未子と再婚、根津松子との交際が深まっていました。この時期に谷崎潤一郎は吉野をたびたび訪れ『吉野葛』を構想します。
吉野の旧家で源義経が静御前に送ったと伝えられる「初音の鼓」や巻物を見せてもらっても、谷崎潤一郎の心に残ったのは熟柿「ずくし」でした。
圓錐形の、尻の尖つた大きな柿であるが、眞つ赤に熟し切つて半透明になつた果實は、恰もゴムの袋の如く膨らんでぶくぶくしながら、日に透かすと琅玕の珠のやうに美しい。市中に賣ってゐる樽柿などは、どんなに熟れてもこんな見事な色にはならないし、かう柔かくなる前に形がぐづぐづに崩れてしまふ。
(中略)
齒ぐきから膓の底へ泌み徹る冷めたさを喜びつゝ甘い粘っこい柿の實を貧るやうに二つまで食べた。私は自分の口腔に吉野の秋を一杯に頬張つた。思ふに佛典中にある菴摩羅果もこれ程美味ではなかつたかも知れない。
谷崎潤一郎『吉野葛』谷崎潤一郎全集 第13巻、中央公論社、1982年、 p21-22より引用
熟柿の色と食感がうかびます。吉野を訪ね「ずくし」を手にとって食べたくなりました。
寝言で注文
54歳頃、1940年(昭和15年)
1935年(昭和10年) 根津清太郎と離婚した森田松子と結婚します。新婚時代に谷崎一郎は寝言でお寿司を注文しました。
寝言と云えば叉実に見事明快なもので、寝言の部類にはいるかと疑わしいが、阪神間の住吉川の畔に住居を持っていた時のこと、家族連れで神戸のお寿しやさんに行った。例の食べる時のわけても威勢のいゝ弾んだ声で皆の分まで註文、満腹して帰った夜の寝言に、鯛、あなご、いか、かっぱと次々註文の末、最後にいくら、三円七十銭、ハイ、と其の日のお寿しやのことを寸分誤りなく復唱したのには唖然とした。長い寝言を云う人はきいたが、こゝまで語尾もはっきりと順序正しく眠っていて云えるものか、頭の構造が少し違うのかしら、と家の者たちといぶかしく思ったのであった。
谷崎松子『倚松庵の夢』 中央公論新社、1979年、p124-125より引用
寝ながらも食事のことを考えていたのでしょう。食に対する情熱に圧倒されます。
大東亜戦争開戦の日
56歳、1941年(昭和16年)12月8日
真珠湾攻撃の知らせを聞き、アメリカ軍の反撃を恐れながら上野広小路で飽食しました。
肉の代りに鮪のトロの切り身をビフテキ風に焼いたマグテキを賞美
大東亜戦争の詔勅の下った日、即ち昭和十六年十二月八日の夜、私は定ちゃんに掴まって上野廣小路の四つ角から黒門町へ寄った方の、松坂屋の反対側にあった蛇の目寿司の暖簾をくゞっていた。
(中略)
定ちゃんも私もビフテキが好きであったが、蛇の目寿司では肉の代りに鮪のトロの凄い奴を大きな切り身にしてビフテキ風に焼いてくれたので、私達はそれをマグテキと称して賞美した。今考えてもあの時代にあの寿司屋に、あんなに白い米の飯があり、あんなに豊富に各種の魚肉があり、あんなに芳醇な灘の生一本があったのが奇蹟であるが、定ちゃんはお膝元のことであるから、殆ど毎夜通い続けていたらしい。而もその晩は開戦当日のことなので、私は必ずフィリピンかハワイ辺から時を移さず爆撃機が襲来することゝ思い、ビクビクしながら食べていたが、そのスリルの故に一層その夜のマグテキは美味に感ぜられた。
谷崎潤一郎『高血圧症の思い出』中央公論新社、2007年、p127より引用
「米軍機の襲来を恐れるスリルが食事を美味にする」との感想、谷崎潤一郎の小説の主人公に通じる自虐的な嗜好です。
戦時下の宴
58歳、1944年(昭和19年)3月3日
戦争の影響で食料事情は厳しくなっていました。この戦時下に谷崎潤一郎は帝国ホテルに招かれます。
宴は親友笹沼源之助の孫の初節句祝い、空襲や戒厳令が囁かれる中で始まった招宴のメニューは次のようなものでした。
- 前菜
- 澄スープ
- 海老クリーム煮御飯添
- 牛繊肉媒焼野菜添
- 若鶏パイ包焼
- 生菜季節物
- 桃メルバ
- 果実
- 瑚排
- 日本酒、ピール、ボルドー白(バルザック)
東京は魚も野菜もない食糧難の時期に驚くような美酒佳肴のフルコース
笹沼源之助は東京初の中華料理店・偕楽園の嫡男、終生谷崎潤一郎を支援したパトロンでした。
谷崎潤一郎が中華料理を最高の料理と位置づけたのは、笹沼源之助との交流が素地になったのかもしれません。
火事より食事
59歳、1944年(昭和19年)9月15日
皆さんは食事中にお店が火事になったらどうしますか?
谷崎潤一郎は食べ続けました。
三人にて越石氏方に至り、こゝにて信子に落合ひ、東亜楼に行く
(中略)
料理が出揃ひたる頃突然コック場の天井より漏電出火、他のお客は皆逃げ出したれども、我等の部屋は幸ひ階下にて煙が来ないため勇敢に大急ぎで食ふ、そのうち火は二階にひろがり消防自動車二台駈け着けて来たので二階が落ちたら恐いからと云って信子は越石氏方に逃げ出す、他の三人は尚も貧り食ひ、ドサクサ紛れに一枝女最も食ひたるやうなり、扨全部食ひ終って表に出ると、子供数人予を指して「あのおっさんや/\」と云って囃す、何事かと思へばあの火事の中で悠々たベてゐた呑気なおっさんやと云ふわけなり
谷崎潤一郎「疎開日記」『月と狂言師』中央公論新社、1981年、p208-209より引用
子どもたちに「のんきなオッサンや」と囃された谷崎潤一郎、どんな表情をしたのか想像すると楽しくなります。
終戦前日、永井荷風とすき焼き
60歳、1945年(昭和20年)8月14日
終戦の前日は永井荷風とすき焼きを食べています。
朝荷風氏と街を散歩す。
(中略)
結局食料買入れの道を開きたる上にて荷風氏を招く事にきめる。 本日此の土地にて牛肉一貫(二OO園)入手したるところへ又津山の山本氏より一貫以上届く。 今日は盆にて晝は強飯をたき豆腐の吸物にて荷風氏も招く。 夜酒二升入手す。 依って夜も荷風氏を招きスキ焼を供す。
谷崎潤一郎「疎開日記」『月と狂言師』中央公論新社、1981年、p257より引用
戦争末期に2貫以上の牛肉を入手
1貫は3.75kgなので、永井荷風のために7.5kgの牛肉を準備しました。
永井荷風は1911年(明治44年)『三田文学』に「谷崎潤一郎氏の作品」と題した評論を発表して谷崎潤一郎を激賛しました。
1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で偏奇館を焼失、関西に移住した永井荷風に対して谷崎潤一郎は礼を尽くした対応をしています。淡々とした付き合いでしたが、谷崎潤一郎は永井荷風を終生「先生」と呼んで敬いました。
谷崎家の夕飯
63歳、1949年(昭和24年)
新東宝作品「細雪」で末娘妙子を演じた高峰秀子は谷崎夫妻と深く付き合いました。彼女が谷崎家の夕食の様子を語っています。
夕食間際の谷崎家は大勢の女たちの往来も一段と活発になって、いつも火事場のような騒ぎであった。
「今夜は……天ぷら……」と、鶴の一声ではなく鯛の一声がかかれば、夕食の食卓の上にはみるみるうちに天ぷらが山積みにされる。小さな天ぷら屋なら二軒分ほどの材料である。潤一郎自身はそれほどの大食漢とは思えなかったが、とにかくご馳走は十分では物足らず、十二分に用意されなければ承知しなかったようである。
高峰秀子『鯛の目玉、わたしの渡世日記 下』文藝春秋、1998年、p112より引用
準備する人たちは大変ですが、楽しい夕餉が浮かびます。
古希を迎えても食欲は旺盛
70歳、1956年(昭和31年)
谷崎潤一郎の食欲はまだまだ旺盛でした。
源氏の後には久し振に創作「鍵」を書き、「老後の春」を書いた。春ごとに秋ごとに京都北白川の義妹の家で送った日々の、いかに楽しかったことか。
(中略)
食物はすべておいしく食べられた。分けても京都の丹熊の日本料理、東京の小川軒のビフテキは忘れられないものになっていた。 酒も相手次第で一合以上二合近くまであふった。
谷崎潤一郎『高血圧症の思い出』中央公論新社、2007年、p171より引用
お酒は灘の「呉春」が一番のお気に入り、食べることに全神経を遣い、好物に対して強い情熱をもっていました。
思いどおりの美味しさでないときは傍から見ていて気の毒なくらいの落胆ぶりだったそうです。
大好物は「鯛のうしほ」
足腰が弱るとともに外出が思うに任せなくなり食べ物が一層楽しみになりました。大好きな「鯛のうしほ」は熱海に運んで来てもらった鯛では満足できず、春と秋に京都へ出向いていました。
高峰秀子はテーブルにこぼした「鯛のうしお」のすまし汁を谷崎潤一郎が吸い上げるのを目撃しています。
あれは確か、下鴨の谷崎家で辻留の出張料理をご馳走になったときだった。
前菜、刺し身とコースが進み、つぎは彼の好物の「鯛のうしお」である.「お待たせいたしました」という声と同時に美しいお椀が運ばれた。食べもののこととなるとまるで子供のように興奮してあわてる潤一郎の指先が、アッという間にお椀をひっくり返し、すまし汁がビシャッとテーブルに流れたとたん、潤一郎の唇がその汁を追いかけて、ちゅうと音立てて汁を吸い上げたのである。その汁をゴクンと喉を鳴らして飲みこんだ潤一郎は、「ああ、もったいない、もったいない」と咳きながらお椀の中をのぞき込んだ。
高峰秀子『わたしの渡世日記 下』文芸春秋、1998年、p118-119より引用
中央公論社の編集者伊吹和子も似たような経験をしました。
銀座でフランス料理を食べているときのこと、フォワグラのコロッケにむしゃぶりつこうとした途端、クリームソースがコロッケの中から飛び出してしまいました。谷崎潤一郎は恨めしそうな表情をして、テーブルクロスの上にちったクリームソースをフォークでかき集めて舐めていたそうです。
なんだか「憎めないおじいちゃん」ですね。
京都からのお取り寄せ
1956年(昭和31年)12月に谷崎は熱海へ移住しました。
離れていても京都には強い思いがあり、食べ物はできる限り京都から取りよせました。
さやうな次第で、心はいつも京都に飛んでゐる。食べる物も出来得る限り京都から運んで貰ってゐる。肉は紳戸牛や松坂牛ならぬ近江牛、これも京都から大きなかたまりで送って來る。夏でも特急で持って来て、熱海驛で落して貰ふ。鶏肉は今出川の鳥岩のを、腸だけ拔いて丸ごとで送らせる。魚は、鯛、ぐじ、鱧、鰆、鮎、等々を、四条のたん熊、銀閣寺の山月から、生菓子は堺町の松屋のがらん餅、深山路、鱧ずしは祇園のいづう、錦の井傅、と、大髄決ってゐる
谷崎潤一郎「京都を想う」『雪後庵夜話』中央公論社、1967年、P112-113より引用
この時期が谷崎潤一郎にとって「老後に於いて最も健康を享受した時代」になりました。
最後の晩餐
79歳、1965年(昭和40年)7月24日
右手の故障と心臓の発作に苦しめられ時期です。1月に前立腺の手術を受けてから体力を取り戻し、ふたたび旺盛な食欲を発揮しました。
5月には京都に遊び、食べ歩きもしています。誕生日には盛大なパーティーが開かれました。
ブウチャンがお祝いのシャンペンを手ずから冷やして、先ず主人にすゝめられた。この人たちの仲間の観世栄夫が仕事で来られないのを大層残念がり、代りに孫の桂男についでやれと云い、おめでとうと、口々に祝われながら飲み干し、次々に出るお料理に、一々おいしい/\と讃嘆の声をあげ、食べっ振りも傍で見惚れるばかりの見事さで、まだ衰えぬ健啖ぶりを喜んだ。殊に、ぼたん鱧(鱧をよく骨切りしたものに葛粉を叩き込みゆで上げ、おつゆの身にしたもの)が大の好物で、味わう暇があるかと思うほどの速さで平らげた。
谷崎松子『倚松庵の夢』 中央公論新社、1979年、p33-34より引用
谷崎潤一郎は79歳の誕生日をご機嫌に過ごしました。しかし翌日から体調が急変して7月30日に亡くなりました。
楽しく美味しい料理を食べまくったことがせめてもの慰めかもしれません。
京都・潺湲亭での日常生活
義娘の渡辺千萬子が京都・潺湲亭での谷崎潤一郎の日常を綴っています。谷崎家の献立は、潺湲亭の時代から熱海伊豆山鳴沢(後の雪後庵)の頃までほとんど変わりませんでした。
仕事は朝5時頃から書斎で開始
朝食
7時頃に茶の間で朝食、潺湲亭では渡辺千萬子が朝食の相手をしました。トーストとフランスパン、季節のフルーツ、紅茶
果物は他者がむいたものは食べないので、剥きやすいものが出されました。谷崎家ではすべての時間が信じられないほどどゆっくり進みます。
昼食
そば、うどん、鯛入りそうめんなどの麺類をよく食べました。夕食にビーフステーキが予定されている日は、朝から食べる量を加減をして美味しく食べられるように準備していました。
夕食
夕食は必ず6時半に開始、谷崎潤一郎は普段着の浴衣をよそゆきに着替えました。女性陣も着物を着替えて化粧をして食卓につきます。家族全員がそろわなければなりません。
うんざりするくらいたくさん食べ物が並んでいると谷崎はご機嫌、夕食の献立はつき出し、季節のお造り、メインは牛肉や鶏肉など
料理方法は和食、洋食、中華など様々、その他にお吸い物、野菜炊き合わせ、サラダ、酢の物、胡麻和えなどが主菜に合わせて用意されました。
食べ物への熱い情熱、グルメや美食家ではなく谷崎潤一郎は無邪気な「喰ひしん坊」でした。