「なんで菊の花になつておしまひやしたんぇ」
谷崎潤一郎がよせた吉井勇の追悼文『吉井勇翁枕花』の副題です。
東大病院に入院していた谷崎潤一郎は、京都で行われた吉井勇の葬礼に出席できませんでした。
代理としてお通夜見舞いに参列した義娘から「お通夜の席に来合せていた祇園の芸妓が、しきりに遺骸に呼びかけて、口説いて泣いた」という話を聞きます。
春勇が酔っぱらって、” 吉井先生、どうして菊の花なんぞになっちまったんで ” って、おいおい泣いてた、ってんですがね、京都言葉でどう言いましたっけね
京言葉について谷崎潤一郎が尋ねた相手は伊吹和子
「町方ではこう申しますが、酔った芸者さんの言葉なら、もう少しくだけた言い方だったでしょうか」伊吹和子は幾通りかの京言葉を綴って谷崎潤一郎に示します。
その中から「なんで菊の花になつておしまひやしたんぇ」が採用されました。
谷崎潤一郎は日本橋の生まれの江戸っ子、日常生活では「 どうして菊の花なんぞになっちまったんで」と江戸言葉を話していました。
ダブルのスーツを着た69歳の谷崎潤一郎が京都や食べものを楽しそうに語っています
谷崎潤一郎の小説には京都を舞台にした小説が多くあります。小説の中の京言葉がどのようにして生まれたのか調べてみました。
伊吹和子(1929-2015)
1959年(昭和34年)に発表された『夢の浮橋』の舞台は京都、登場人物が語る言葉は、谷崎潤一郎が書いた江戸言葉を伊吹和子が京言葉に直しています。
伊吹和子は生粋の京都育ちで京大国文学研究室に学んでいました。この関係で『潤一郎新譯源氏物語』の口語訳の助手を務め、のちに中央公論社の編集者となって谷崎が亡くなるまで関わりをもちました。
1994年(兵制年)伊吹和子は『われよりほかに ― 谷崎潤一郎最後の十二年』講談社を著しました。この中で『夢の浮橋』の京言葉がうまれる様子が明らかにしています。
『夢の浮橋』
『夢の浮橋』は谷崎潤一郎にとって全篇口述筆記した最初の作品です。
1958年(昭和33年)11月に72歳の谷崎潤一郎は右手の麻痺を患います。原稿を書けなくなった谷崎潤一郎のために伊吹和子が口述筆記を担当しました。
伊吹和子の口述筆記を谷崎潤一郎は次のように評しています。
僕のところにゐる秘書の婦人がしてくれてゐる。相當熟練してゐるので、これ以上の人は望めないと思ってゐるのだが、作者自身にしてみれば、やはり自分で筆を執って書いたものゝやうな譯には行かない。
谷崎潤一郎「或る日の問答」『 谷崎潤一郎全集 第21巻』中央公論社、1983年、p201より引用
『夢の浮橋』の京言葉
伊吹和子は口述筆記だけでなく京言葉の修正にも関わります。
先生は、小説の舞台の五位庵が潺湲亭であることや、主人公は明治の後期ーー正確には三十九年ーーにあの家で生れていて、全体の時代が大正から昭和初期にかけてという設定になることなどを説明された後、登場人物が京都に住んでいるのだから、会話文は京言葉で書くことにする、しかし、自分は普段の言葉使いで口授するから、それをあなたが直して下さい、とおっしゃった。
伊吹和子『われよりほかに ― 谷崎潤一郎最後の十二年』講談社、1994年、p210より引用
1959年(昭和34年)夏、伊豆山・雪後庵の書斎の掘炬燵で口述筆記が始まりました。
主人公の「糺」夫婦は1906年(明治39年)生れで伊吹和子の両親と同世代、「糺」の両親は伊吹和子の祖父母と年代が一致しています。
登場人物を自分の身辺に実在した人物に当てはめ、その人物がしゃべっているところを想像しながら伊吹和子は谷崎潤一郎の言葉を京言葉に直していきました。
実際の作業手順
谷崎潤一郎が語る江戸言葉は次のよう工程を経て京言葉に修正されました。
標準語(江戸言葉)で口述する
会話の人物に似合うと思われる実在の人を頭に描きながら京言葉に変える
幾通りか書いて、声に出して言う
気に入った言葉を選ぶ
その場に一番ふさわしく文字面も美しいと思われるものを書いて谷崎に見せる
及第すると原稿の文章に続けて書く
さらに会話文を確実にするため伊吹和子は工夫をします
その日に書いた京言葉を全部書き写し、明治38年生まれの母親に「これで無理はないか」と手紙で問い合わせる
登場人物の京言葉は時代や年齢、身分、職業に応じて異なります
2、3日遅れで意見を書いた返事を伊吹和子にとどける
母の意見も総合して谷崎潤一郎に報告する
決定稿を決める
入念な手間を一つひとつの言葉にかけて『夢の浮橋』の京言葉は生まれました。
水上勉『越前竹人形』の京言葉
伊吹和子は水上勉『越前竹人形』の京言葉も監修しました。
1962年(昭和37年)『五番町タ霧楼』を発表した水上勉はこの小説の京言葉に納得していませんでした。『夢の浮橋』の京言葉を高く評価していた水上勉は『越前竹人形』の会話文の修正を伊吹和子に依頼します。
水上先生の『越前竹人形』は、当時「文芸朝日」に連載されたが、開始の時から、単行本としては、中央公論社より上梓されることが決っていた。製作の直接の担当は私ではなかったけれども、ヒロイン「玉枝」が京都から福井へ流れて行った女性であり、関西が舞台になるので、彼女を中心とした会話文の京言葉を見てほしいという水上先生の依頼で、私は会社から命じられて、たびたび水上先生の仕事場を訪問することになった。
伊吹和子『われよりほかに ― 谷崎潤一郎最後の十二年』講談社、 1994年、p395より引用
『越前竹人形』を読んだ谷崎潤一郎は『夢の浮橋』との類似性に気づきます。
讃んで行くうちに第一に私が氣がついたのは、この中に出て来るやゝ古風な京都辯が、私の著作「夢の浮橋」に出て来る京都辯と似てゐることであった。實は私のあの京都辯は、生粋の京都の舊家の育ちである中央公論社の伊吹和子氏に教へて貰ったのであるが、この間そのことを伊吹氏に話したところ、正直を云ふと竹人形の京都辯も伊吹氏が直したのであると云ふ。さう云へば京都辯ばかりでなく、いろ/\の點で水上君のこの作品は私の「夢の浮橋」を思ひ出させるものがある。
谷崎潤一郎「『越前竹人形』を讀む」『雪後庵夜話』中央公論社、1967年、p163
谷崎潤一郎は『夢の浮橋』に不満を感じていましたが、『越前竹人形』の読後感を書いたことで『夢の浮橋』に対する愛着が深まったそうです。
伊吹和子『われよりほかに ― 谷崎潤一郎最後の十二年』
伊吹和子が67歳の谷崎潤一郎と初めて出会ったのは24歳のとき、その翌日から逝去まで12年間の仕事と生活が描かれています。晩年の谷崎潤一郎が病気とたたかいながら創作に立ち向かう姿に私は感銘を受けました。
500ページ余りで読み応えタップリですが、谷崎潤一郎に興味ある方にはオススメの本です。