60年前に「車内ワーク」を実践! 冗談音楽の怪人・三木鶏郎

親指をたてるジェスチャーをしている白衣を着た男性の医師が描かれているイラストです。

コロナ禍の影響で話題になっている「車内テレワーク」、60年前に実践していた人がいます。

三木鶏郎(1914~1994)、ラジオ、コマーシャル、音楽、映画など第二次世界大戦後の娯楽メディアで活躍したマルチエディターです。

彼はマイクロバスのボディー側面をくり抜いてピアノや録音再生装置を組み込んだ移動スタジオで仕事をしていました。

これは快適でした。箱根の芦ノ湖畔に車を止めて、美しい風景をながめ、ながら静かな環境で仕事ができます。終るとそのままバスを走らせて適当な宿屋をさがし、バスを車庫に入れて一泊します。夜にでも楽想が湧くとすぐバスに入って作曲をつづけます。仕事に飽きたら簡単に場所を変えることができ、例えば、大観峠を下って湯河原から伊豆半島を南下し、人気のない海岸で作曲ができます。

三木鶏郎著『私の愛する糖尿病』筑摩書房、1994年、p91より引用

作曲家、放送作家、作詞家、コピーライター、声優としての活躍だけでなく、永六輔野坂昭如ら後進の養成にもつとめています。

泉麻人著『冗談音楽の怪人・三木鶏郎 ラジオとCMソングの戦後史』には彼の歩みを軸として戦後の娯楽メディアの変遷が描かれています。

この本がオススメなのは三木鶏郎が作ったCMソングや「テレビまんが」の主題歌が耳に残っている人、特に1950年~ 60年生まれで次のタイトルにピンときた方です。

  • 鉄人28号
  • 遊星仮面
  • ジャングル大帝
  • 遊星少年パピイ

三木鶏郎の仕事

CMソング

日本のCMソング第1号は三木鶏郎が作りました。小西六写真工業の「僕はアマチュアカメラマン」です。

僕はアマチュアカメラマン

(中略)
写真が出来たら

みんなピンボケだ
アラ ピンボケだ
オヤ ピンボケだ
ああ みんな ピンボケだ

「ボクはアマチュアカメラマン」三木鶏郎作詞、ビクター

カメラ会社のCMで「ピンボケ」というオチを連呼する破天荒な作品です。

この他にも懐かしいCMソングをたくさん作っています。

松下電器
「明るいナショナル」

ルル(三共)
「くしゃみ3回 ルル3錠」

黄桜
「カッパッパ ルンパッパ~ 黄桜」

ミツワ石鹸
「ワ・ワ・ワー 輪が3つ」

武田薬品
「タケダタケダタケダ~」

ラジオ番組『日曜娯楽版』

三木鶏郎の代表的なラジオ番組は『日曜娯楽版』です。連合国占領下の1947年(昭和22年)10月12日に放送を開始

ただの娯楽番組ではなく時事コントや風刺のきいった音楽で爆発的な人気をえました。楽曲の提供や番組構成だけでなく、自ら出演していた三木鶏郎は日本一の人気者でした。

「日曜娯楽版」の聴取率が51%で番組中トップ(実際は63%だったらしい)であることを報告し、GHQが発行する「スターズ&ストライプス」誌が行なった”日本人芸能人人気投票” で三木鶏郎が1位に輝いた・・と馬場は告げている。ちなみに、2位が長谷川一夫、3位が美空ひばり。

泉麻人著『冗談音楽の怪人・三木鶏郎 ラジオとCMソングの戦後史』新潮社、2019年、p122より引用

番組では時の吉田茂首相を徹底的にネタにしました。吉田茂の実子吉田健一は父の敵であった『日曜娯楽版』をこきおろしています。

トリローの冗談音楽などというのは吉田首相一人で持っていたのではないだろうか。その吉田首相なるものがいなくなって、あの愚劣な吉田攻撃が聞かれなくなったのも、とは言え、文藝春秋新社がこのプログラムを後援している間は何か別な種を見付けて、同じ愚劣な放送を続けるのだろうから、この方はまだ慶賀する段階に達していない。

『文芸春秋』1955年1月号に掲載

「冗談音楽」から「ユーモア劇場」と改称して番組は続きましたが、1954年(昭和29年)6月に政治圧力のために番組は打ち切られました。

「冗談音楽」終了後の三木鶏郎音楽事務所の様子を野坂昭如(1930-2015)が伝えています。

三木氏は当時、冗談音楽がNHKから追放され、文化放送の「ユーモア劇場」も、調刺を政府ににらまれて、中断された直後、いわばひっ息した状態だった。
(中略)
二年ほど前の、輝けるトリローには較ぶべくもなく、従って、事務所には、専従者が二人、臨時が二人しかいなかった。

野坂昭如『マスコミ漂流記』幻戯書房、2015年、p14より引用

野坂昭如は事務所を掃除しているところを三木鶏郎に褒められ、やがてマネージャーの職につきます。

作曲バスを考案

1960年(昭和35年)頃三木鶏郎は人間嫌いになっていました。人を避けて仕事をする方法をいろいろ試み、試行錯誤の末に作曲バスを考え出します。

そこでついにタウナスのマイクロバスを買い込み、中にピアノをすっかりはめ込みました。ついでに録音再生装置も組込んで作曲から録音までできる移動スタジオを作りました。

三木鶏郎著『私の愛する糖尿病』筑摩書房、1994年、p91より引用

文化放送の「三木鶏郎ギャラリー」に作曲バスで作曲中の三木鶏郎の写真がのっています。このサイトでは1960年(昭和35年)7月に箱根・初島へ作曲バスで旅行したパジャマ姿の三木鶏郎を見られます。

これは快適だった。月1回1週間行程の旅行に出掛ければストレスの解消になる。何しろ糖尿にストレスは大敵である。またコマーシャルソング作りには前に作ったものを忘れるため頭の切り替えが必要で、バス旅行はこれにも有効。さらに作曲のため現地視察に出掛けた帰り、その印象が新鮮な内に仕事に取りかかれるという利点もあった。

文化放送「三木鶏郎ギャラリー」より引用

なんでも詳しい泉麻人

著者の泉麻人は1956年(昭和31年)東京都生まれ、豊富な知識と探求心のかたまり

この本も大量の資料を読みこなして作られています。ところどころで三木鶏郎と直接関係ない話題で楽しませてくれます。

トリロー波乱の年・1954年の新聞記事を調べていて、11月17日の朝日新聞夕刊にこんな記事を見つけた。〈ちかごろ声優評判記〉と題した芸能面のコラムで

(中略)
声優乱立状態の中で、本道を歩いているのは中村メイコを筆頭に楠トシエ、草笛光子、阿里道子、永井百合子、森繁久彌、岩井半四郎、夏川静江、浪花千栄子それに徳川夢声といったところ。

泉麻人著『冗談音楽の怪人・三木鶏郎 ラジオとCMソングの戦後史』新潮社、2019年、p224より引用

これは国会図書館のマイクロフィルムで見つけた記事、NHKの連続テレビ小説『おちょやん』の主人公浪花千栄子さんの名前があります。

1954年はラジオドラマ『お父さんはお人好し』が放送されていました。浪花千栄子と花菱アチャコの共演で、五男七女の12人を子に持つ夫婦の日常生活を描いたドラマです。

テレビ小説では、夫に裏切られて道頓堀から姿を消した千代が復帰するラジオドラマとして描かれました。

泉麻人は地図にもこだわります。

青物町や蠣殻町の家の場合もそうなのだが、トリローの地理解説は実に細かく、適確で、地図好きには楽しい。

泉麻人著『冗談音楽の怪人・三木鶏郎 ラジオとCMソングの戦後史』新潮社、2019年、p157より引用

三木鶏郎にも似た資質がありました。

こういう地理描写を読むと、なんとしても当時の地図を調べたくなる僕は、住宅地図の一種ともいえる火災保険特殊地図の蔵書が充実している広尾の東京都立中央図書館に向かった

泉麻人著『冗談音楽の怪人・三木鶏郎 ラジオとCMソングの戦後史』新潮社、2019年、p181より引用

地図を読み解きながら泉麻人は細かいことまで教えてくれます。この本はGoogle Mapを開きながら読むのがオススメです。

糖尿病と真摯に向き合う

1958年(昭和33年)三木鶏郎は44歳で糖尿病と診断されました。初めて測った血糖値が315mg/dL(正常値は110mg/dl未満)

1959年(昭和34年)には日赤病院に入院します。このとき糖尿病と真摯に向き合うことを決意しました。

その年の12月24日クリスマスイブに日赤中央病院でキャンドルサービスに出会いました。

(中略)

病室の窓から見えるろうそくの行列と、閣を通して近づいてくる合唱は、たとえようのない美しさと、胸の奥にしみ通るような感動を与えました。

(中略)

よし、こうなったら自分で勉強してこの糖尿という怪物と取り組むほか仕方がない。わが人生の後半生を糖尿退治に捧げようと、当時四十五歳の私は悲壮な決心を固めました。

三木鶏郎著『私の愛する糖尿病』筑摩書房、1994年、p87より引用

当時の治療はもっぱら糖質を制限する食餌療法、1日に何回も尿糖を測定して毎日記録をつけながら尿糖をコントロールします。

自分の病状を把握することに務め、外出のときも、出勤のときも、旅行のときも自ら発明した「携帯トイレ」を持ち歩きました。

あるとき、うっかりこれをバーに置き忘れました。翌朝とりに行ったら、皆で見たらしく、クスクス笑うのです。それ以来そのバーには行かなくなりました。
この携帯トイレも夕方家に帰るころはずっしり重くなります。そこで一句、
わがものと思えば軽し肩のしょん

三木鶏郎著『私の愛する糖尿病』筑摩書房、1994年、p52より引用

やがて「趣味の糖尿病」と呼ぶ境地にいたります。1969年(昭和44年)5月に「糖尿友の会」を発足、同年7月には機関紙『糖友』を創刊

1981年(昭和56年)に『私の愛する糖尿病』を出版しました。『糖友』に創刊号から連載した「おしっこ十年」をまとめた糖尿病エッセイ集です。

帯広告のキャッチフレーズは「たとえ好きな女房と別れることが出来ても糖尿とは生涯別れることは出来ない

この本で三木鶏郎は私生活を赤膚々に書き綴っています。この頃になると仕事を制限して、冬は暖かい南の島で過ごすようになりました。

1994年(平成6年)10月7日に80歳で逝去

彼のもとから多くの才能が羽ばたきました。「永六輔」「野坂昭如」「三木のり平」「神津善行」「いずみたく」「中村メイ子」 、意外なところでは「左とん平」「なべおさみ」

皆さん三木鶏郎の門下生でした。

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