伝説を駆け抜けた奇跡の左腕、No. 70 サンディ・コーファックス、Joe Posnanski『THE BASEBALL 100』#10

サンディ・コーファックス(Sandy Koufax、1935年12月30日 – )ニックネームは ” the Left Arm of God(神の左腕)” 1955年から1966年までブルックリン/ ロサンゼルス・ドジャースでプレーした 野球史上最も偉大な投手の一人です。ドジャースで大谷選手の同僚であるカーショウ投手が最も尊敬する選手でもあります。

ジョー・ポズナンスキー『THE BASEBALL 100』という野球史上偉大な100人の選手を選んだ本でコーファックスは70位にリストアップされています。ポズナンスキーが語るコーファックスの並外れたキャリアと、早すぎる引退の背後にある真の動機を紹介します。

神話と偉業

多くの人がコーファックスの凄さを語っています。

「彼を打つのは、フォークでコーヒーを飲むようなものだ」ウィリー・スタージェル(ピッツバーグ・パイレーツ)

「コーファックスからファウルボールを打てれば道徳的な勝利だった」ドン・サットン(ロサンゼルス・ドジャース)

「今まで私が見た中で最も偉大な投手だ」アーニー・バンクス(シカゴ・カブス)

「彼がヒットを打たれると、人々は周りを見回して『一体どんなミスをしたんだろう』と話し合ったものだ」アラン・ロス(統計学者)

「彼の速球を見た瞬間、腕の毛が逆だったんだ。システィーナ礼拝堂の天井を見たとき以来の衝撃だった」バジー・ババシ(ロサンゼルス・ドジャース元GM)

コーファックスは神話と偉業が密接に絡み合った選手です。彼のキャリアには幸運と不運が入り混じっています。奇妙な輝きを放ちながら消えていった永遠に記憶される流れ星のような存在でした。

ブルックリンが生んだサウスポー

サンディ・コーファックスはブルックリンで育ちました。一番好きなスポーツは野球ではなく、バスケットボールで天才プレイヤーとして知られていました。大学の新入生時代はバスケットボールチームに所属していました。

しかし彼の左腕の才能を隠すことはできません。説得されてシンシナティ大学の野球チームに加わると、彼の速球はスカウトたちの注目をあびるようになりました。

1955年コーファックスはブルックリン・ドジャースと契約金は$14,000 (2,100,000円)で契約しました。当時としては破格の金額だったので、コーファックスは「ボーナス・ベイビー」と呼ばれます。

当時はアマチュア選手に$6,000 (900,000円)以上の契約金を支払った場合、その選手はマイナーリーグの試合に出られないルールがありました。このためコーファックスはマイナーリーグでは1日も投球していません。

もしマイナーリーグで慎重に育成されていたら、彼のキャリアは変わったのでしょうか。それが良かったのか、悪かったのかは誰にも分かりません。

1955年から1960年までの6年間、三振の山を築きながらも、制球難のため多くの四球や暴投を与えました。そしてキャリアを短期で終わらせることになる肘の故障にも悩まされました。

3つのできごと

1961年、まだ未熟で発展途上でしたが、コーファックスはその素晴らしい才能を見せ始めます。この年、彼はリーグで最多の三振を奪いました。そして、その後に起きた3つの出来事が彼のキャリアを大きく後押しすることになるのです。

1.1962年、ドジャースは打者に有利なロサンゼルス・メモリアル・コロシアムからドジャースタジアムに本拠地を移しました。ドジャー・スタジアムは後に、野球史上屈指の投手に有利な球場となります

2.ストライクゾーンが上下に広がりました。1963年、野球規則委員会はストライクゾーンを「バッターの膝から肩の上部まで」に変更します。この変更が「第2のデッドボール時代」をもたらすとは全く予想されていませんでした。

3.ドジャースはメジャーリーグでマウンドを最も高くしました。ピッチャーマウンドの高さを15インチに制限するルールが守られていないことに、ドジャースは他のどのチームよりも早く気づいたのです。

これらの出来事がすべて同時に起こらなくても、コーファックスは 間違いなく偉大な投手になっていたでしょう。しかし、この3つの出来事がコーファックスをスーパーヒーローに押し上げるのに役立ったことは間違いありません。

輝かしい4年間

1963年から1966年の4年間にコーファックスは、かつてどの投手も成し遂げたことがない活躍をしました。

  • 4年間で3回の投手三冠王
  • 1963年と1965年、1966年にリーグトップの勝利数と防御率、三振数
  • 4年連続でノーヒットノーランを達成
  • 4年間の総防御率は1.86
  • ドジャースタジアムでは4年間で50勝11敗、防御率1.31、21完封勝利を記録

4年間でドジャースを3回ワールドシリーズに導き、2回チャンピオンになりました。コーファックスはワールドシリーズでも素晴らしい活躍を見せています。

1963年ドジャースは4連勝でヤンキースを破ってワールドシリーズを制覇しました。コーファックスはヤンキースタジアムで第1戦を15奪三振、2失点で完投勝利、ホームの最終第4戦は無四球1失点で完投勝利、シシリーズのMVPを獲得しました。オフにはサイ・ヤング賞とリーグMVPをダブル受賞しています。

1965年ミネソタ・ツインズと第7戦までもつれ込んだワールドシリーズでは、ユダヤ教の贖罪日(ヨム・キプール)と重なったため初戦の登板を回避しました。第2戦はツインズのジム・カートの素晴らしいピッチングの前に敗戦投手になりました。しかし第5戦は4安打、10奪三振で完封勝利、3日後の第7戦、中2日の登板でしたが3安打10奪三振で完封勝利を飾りました。2度目のシリーズMVPを獲得しています。

1966年ボルチモア・オリオールズとのワールドシリーズは4連敗で敗退しました。シリーズ終了後の11月18日、30歳でコーファックスは突然引退を発表します。

30歳での引退

コーファックスは痛みを抱えながら投げ続けたことで有名です。氷水が入った巨大なバケツに肘をつけているコーファックスの写真が新聞に何度も掲載されました。問題になったのは肘の関節炎です。野球ではなく、高校生の頃のバスケットボールで痛めたと言われています。

「私はあまりにも多くの注射を打ち、多くの薬を飲み過ぎました。自分を完全な障害者にしてしまう危険を冒したくありません」と引退会見でコーファックスは報道陣に語りました。

引退の理由に関しては懐疑的な声があります。多くの人は彼がいずれ復帰すると考えていました。しかし彼は戻ってきませんでした。

1966年のシーズン前、コーファックスとドライスデールは野球史に残る大胆な契約交渉を試みました。二人は一緒に3年契約を求めました。その要求が否定された場合は二人とも試合に出場しないという内容でした

厳しい交渉に敗れた後、コーファックスと球団の間には確執が残りました。多くの人たちはコーファックスがドジャースに怒りを抱いていたと考えています。

両者の対立は激しく、引退発表の延期を求めた球団の求めをコーファックスは拒絶しました。コーファックスの拒絶に対して、ゼネラルマネージャーのババシは記者会見に同席することを拒否しました。

新たな旅立ち

腕の痛みはコーファックスを引退に追い込んだ理由の一つでした。しかし、それだけが引退の理由ではありません。コーファックスは自叙伝の中で真の目的を率直に語っています

「野球選手としてのキャリアはは人生の一時的なものです。それは青春時代と生涯のキャリアの始まりをつなぐ期間なのです」

コーファックスは「青春を終わらせる時期」だと思っていたようです。彼の親しい友人は「痛み以上に、彼は野球を離れて人生の次の段階に進む時期になっていた」と語っています。偉大な投手にも人生の新たな段階に挑戦する時が来ていたのです。

最終的にコーファックスは引退することでさらに偉大な伝説になりました。私たちは彼の衰えた姿を見ていません。彼の速球が勢いを失ったり、彼のカーブが打者に打ち込まれるのを見たこともありません。私たちの心の中でサンディ・コーファックスは永遠に若いままであり続けます。

1967年ババシはスポーツ・イラストレイテッドにコーファックスに関する奇妙で後味の悪い記事を書きました。コーファックスのピッチングを称賛する言葉もありますが、大部分は契約交渉や引退発表に対する不満を表明する内容でした。

コーファックスを批判しながらもババシは次のように述べています。「サンディ・コーファックスの人生の記録を調べることで、ジャーナリズムの問題について多くのことを学べるはずです。私の考えではルドルフ・バレンティノ以来、サンディほど多くの神話や伝説、そして作り話を書かれた人物はいません」

ババシは「報道陣がコーファックスを実物以上に伝説的な選手にしてしまった」と非難しました。コーファックスを英雄として描き、彼の痛みを殉教的に扱い、彼の速球を稲妻に例え、彼の左腕を「神の腕」と呼ぶことで、彼を現実を超えたヒーローにしてしまったと批判しています。

ババシの苦々しい告白は、コーファックスの引退が多くの人々にとってどれほど衝撃的であり、またその背景にどれほどの対立があったかを物語っています。それでもコーファックスの伝説は、彼の素晴らしい投球とともに、彼の引退によってさらに強化されました。コーファックスの活躍だけでなく、その神話や伝説、そして作り話さえもが、野球というゲームの魅力を高めています。

ババシは示唆的で普遍的な話もしています。「コーファックスは素晴らしい投手であり、自分の思い通りにゲームを支配できる男であった。また伝説であり、燃え尽きる前に夜空を駆け抜けた流星であり、今も野球ファンが拠り所とする象徴なのです」

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